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 古典力学的には粒子の持つ全エネルギーは、運動エネルギーと位置エネルギーの和である。この見方で人間の成長を考えると、位置エネルギーを意識的に高めようとすることが重要である。おそらく、誰かが"努力している"という場合、その多くは運動エネルギーに関してである。
 位置エネルギーとは、環境・境遇が無理やりにでも私どもから引き出したエネルギーである。だから、位置エネルギーを制御するとは、纏う環境(場)を意識的に制御するということになるのだろう。しかし、環境を変化させれば大抵初めはうまく適応できないため、弱い立場ならではの不安と不快な思いを改めて味わうことになる。だから、運動エネルギーのみに注力することで、ますます十分に適応できるようになる現在の環境の中に居り続けることで、最強を気取りつつ、こんなものでは私の心は満ち足りないと周囲に不満を洩らすようになる。
 海水魚を淡水にぶち込むようなもの、淡水魚を陸に上げる様なものなので、確かに慣れるまでは不愉快である。どの程度の"不愉快さ"かといえば、程度を誤れば死んでしまうくらいである。毒の盛り方、つまり、場の制御は慎重に、大胆にするのが良い。
 心理学での幸福の定義は、自分が今いる環境に自分が適応できていることを実感している状態・・・だとされる。だとすれば、進化・成長とはあえて不幸になる道を選ぶこととも言えそうだ。

 最近は、小津安二郎の「晩春(1949年)」を見る機会がありました。構図を考える良い機会になります。ひとつひとつのカットを見ていくと、画面上での人物の配置がなぜこのようにしたのかを考えてしまいます。明確な答えは見つかりませんが、そのささいな変化が確かに見る人の印象を変えるのだということはわかる。その配置と印象の相関関係を炙りだして(パターン化する)、小津らしさというものを浮き彫りにしていきたい。

最近は、脳科学に夢中ですね。
 焦点はやはり、"自由意志の有無"ですね。結論から言えば、"自由意志"はない。あるのは、"自由否定"らしい。確かに、殺意が湧くのは僕の意志に関係なく生じるけど、それを行動に移すかどうかを選択する猶予は僕にありますね。もちろん、その猶予を忘れるくらいに憤慨したりすれば、"魔がさした"という事態になるのでしょう。脳の神経回路の"ゆらぎ"が意思の端緒となるので、つまり、何かしようという思考がいつどこで生じるかの予測は、短期的にはまったく融通のきく類ではない乱雑な自然現象なのかと思う。
 僕は「人間とは何か(著マーク・トウェイン)」に触れ、当時の決定論的風潮は嫌いじゃないので、物理法則に縛られないと感じる人間の自由意志を神聖視・特別扱いせず、水面の波紋が広がる一連の無我の現象と同じ感覚で捉えたいと思ってきました。仏教では"諸法無我"というのでしょうか。夏目漱石の晩年の思想"則天去私"では、もっと修身的意味合いが強いが、そこにはやはり、自分というものを消し去り、天の普遍法則に従えと薦めてるようだ。
 人間や動物も含め例外なく味気なく通底している物理現象(諸法)に、人間は世界を彩るように好き勝手に解釈し、その解釈が正しいと信じて疑わない。解釈するためには指標となる"モノサシ"があるわけで、その"モノサシ"は普通に生きているだけでは大して精密かつ柔軟になるはずがないのであるが、どういうわけかその"狂ったモノサシ"から得られる出力結果に疑問を抱くことは本能に抗うかのように許し難く、場合よっては実質以上の自信を持ってしまう。"権理"は"権利"に変化してしまったが、"理を権る力"を養うというのは大変な努力が必要だ。"権理"の方が個人的には好ましい。
 人間の"自由意志"の生起の実態は、物理的な神経内の電気的ゆらぎを端緒とし、ニューロンの層が幾重にも重なって、いずれ秩序だった、方向性のある思考が形成される。膨大な量は組み合わせ次第で、時として質を一変させる。故 宮城音弥氏は、自由と感じるのは幻想であり、私たちは本当の自由ではなく、行動に「自由感」を伴っているにすぎないと記していた。心理学的な実験も多々行われているようだが、脳は自分の言動に対して不本意・誤りだったとしても、自分が自分の意思でそれを望んで行ったのだ・・・と後出し的に、記憶・感情を修正し、内部矛盾が起こらないように補正する。これは、脳の特性らしい。ささいな無意識的な虚偽は日常茶飯事であり、むしろ自然な働きともいえる。奴隷が二人いて、その奴隷互いには自分を繋ぐ鎖の立派さで優劣を競い合うようになるという・・・これも自分を安定に保つために必要な虚偽の一つではないか。
 そうした自然に脳が求める虚偽を真っ向から否定するようですが、"非才をかこつな"っていい表現ですね。今まで僕が複雑にこねくり回して表現していたことが、スパッと言い表された感覚。こういうことを既に言っている人がいるんだよね。"非才をかこつな"は、いくら努力しても自分のように才能のない人間には限界があると考えている人に対して、非才を言い訳にして努力を怠るなってことです。ニーチェの超人思想も同様だろう。神がある限り、人間は生きることの困難さを神に丸投げしてしまう。どんなに生きづらい人生であっても、外部の絶対者に頼ることなく、自らの確立した意思でもって行動する。安易な逃げ道は須らく封鎖すべきであり、全ての行いの結果を自身に帰責させられるように漏れなく因果関係を掌握する。それが超人だという。時代的には1900年プランクの量子仮説以前の古典物理決定論全盛期に生きた人だから、やはり因果関係は決定論的に解釈できるという思想はどぎつく定礎となっているように感じる。超人は皆それぞれ脳内に"ラプラスの悪魔"を飼えってことかもしれない。

 超人思想は心理的な拷問器具のようなもので、絶えられる資質のある人には良薬だろうが、大抵は感情的に嫌われてしまうのが普通だろう。超人思想のモノサシで他者の行いを喝破することは、心理的だとはいえ、耐える覚悟のない他者に拷問器具を強制装着させるに等しく、これは超人同士でなければ成り立たない行為だと思われる。超人思想は男性的な発想だ。

幸田露伴の「努力論」より一節。
 「天才という言葉は、ややもすると努力に拠らずして得たる智識才能を指差すが如く解釈されているのが、世俗の常になっている。が、それは皮相の見たるをまぬかれない。いわゆる天才なるものは、その系統上における先人の努力の堆積がしからめした結果と見るのが至当である。」
 "至当である"って"極めて当然であり、適切であること"っていう意味だけど、使う言葉にしても洗練されている感がある。達する見解は皆同じなようだ。

人間の建設(岡 潔、小林秀雄)より。

 紹介したい部分は広い範囲に渡っています。対話形式ということもあり、やや長い前置きを経た上で要点が散在しているので、部分的な抄録では文脈の理解が難しいと思います。理解し難いと思いますが以下、若干の注釈をした上で紹介します。 

(本文、省略させていただきます!!)

ここで僕一人ではなかなか勇気と確信がなくて主張できないが、可能ならば言い切ってやりたい発言がありました。一部、列挙すると、


「今の芸術家は嫌な絵を押し切って描いて、他の人には描けないといって威張っている。」
→個性や独創性は確かに大事だが、評価に値しない(普遍性がなく、共感を生まない)あぶくのような個性を主張しているということだろう。

小林
「今の絵描きは自分を主張して、物を描くことをしないから、それが不愉快なんだな。物を描かなくなって、自分の考えたこととか自分の勝手な夢を描くようになった。」
→自分の想像だけでなく、実際にモノを目で見てデッサンしろってことだろう。大衆が思っている以上に、人間個人が独自に思い描く内容の99%は、自然が表現するものよりも相当つまらないものだという認識が自分にはあるし、そのスタンスで今のところ文句はない。


「この松の枝ぶりが良いとかいけないとかいう見方は、思い上がったことなのです。」
→僕が望む絵描きは、被写体がどのようなものでも絵になり、被写体を選り好みすることはない。上文では、選り好みしなければ絵にならないという絵描きの態度は、思い上がったことだと言っています。選り好みしなければならないのは、、被写体に責任があるのではなく、絵描き自身の未熟さに原因があるということだろう。
 「絵になる=それらしく見える」のであり、「美」とはまた違ったニュアンスなのだと思います。
以上の3つです。

 僕の立場からすれば、絵を描くときに悩むことなんてなくていいんです。目の前の被写体をよく見てありのままに描けばいいのです。描けないもの(知らないもの)を無理やり描こうとするから、想定外の現実とは掛け離れたものができあがる。
 僕は知らないことを極力描こうとはしない。なぜなら、描けなくて当然だからだ。ここで悩む人がいるが、描けないことは必然的な帰結ですので、知らないものを描けないと悩むことはないのです。むしろ、描けないことは、知っていないということになります。

 僕に描ける絵は、描けるレベルで知っている範囲のものであるか、もしくは、知らないが完全に模写を行う場合だけである。全く新しいものを描けるように見える場合があるが、それは既知情報の複雑な組み合わせで必ず説明されるべきであり、鑑賞者はその情報の組み合わせを容易に解体できないから「無からの創造」という安易な解釈に、自分の及ばぬ知性の慰めを行う。「組み合わせの妙」とは、それだけ多彩深奥だと思われる。なお、自分はルーベンスと同様に、引いた線に対する起源や意図には説明責任を持つべきという気構えである。だから、人の意図を極力消したり、偶然性を全面的に利用する絵描き(そういうのを認める部分もあるが、説明責任まで放棄されると困る)や、小我に捕らわれた絵描きの意見とは相性が悪いだろう。しかし、あくまで僕の信念に沿わないという個人的見解に過ぎず、世間一般には認められるべきだろうと思うし、そういうやり方でないと生まれないものもあるでしょうね。

 新しいものを描ける様になる為に、模写は知識の入力の役割を果たす。絵を文章と例えるならば、模写の精度が優れることは、単語の意味を辞書できちんと毎回正確に引くことに対応する。模写ができなければ、意味のある文章は作ることはできない。「模写の意義」とはここにあると確信を持ったのは、絵を描き始めて3~4年目だった。ちなみに、この上達の工程は絵に限ったことではないと思う。上達の基本構造だと敷衍したい。

 知人の画家によれば、模写は出来て当たり前であり、半年やれば誰でもできると言っていた。この時、自分の唱える方針が、あまりに当たり前に受け入れられたことにやや驚き、自信が持てた。一方で、模写ができない人が多い(出来ないといっても程度は人によって違いますが)。
 模写をしない人はそもそもできる能力がないのではなく、模写の意義を軽視しているか、全く知らない人だと思う。模写の意義を知り、なお模写の技術を高めようとしないならば、それは僕とは求める終着駅が違うのだろう。そうならば、お互い比べあうということに意味がないのかもしれない。「飢える」対象が自分とは違うのだと割り切るしかない。

 僕が絵を描くときに悩むポイントは、模写で得た正しい情報をどのように秩序立てるかなのであり、何度も消したり描いたりして、その場限りの、あてずっぽうに、視覚的に、正しい線を探そうとすることではない。ただし、あてずっぽうに何度も消したり描いたりする段階が成長の段階で一度もないというこはないだろう。まずはそうやって森を見ずに、一枚の葉っぱだけに固執するような段階はあるのだと思います。そうやって、いずれ、顔という一つの木、腕という一つの木をストレートに描け始め、ひとつひとつの木をどのように描けるようになったかを反省すれば、おのずと自分の方法論が確立されてくるのだなと思う。
 ちなみに、この情報の秩序化(=有機的な結びつき、系統化)という過程が、文章で例えたところの文法に対応する。この文法を作る作業にこそ相当考えなければならない。私の思う絵描きの独創性とは、描いた結果としての絵(絵柄)にあるのではなく、絵を描く文法をどのような知識を用いて、いかに構築したかに掛かっていると思う。僕は今このことを思いつきで言ったけど、実際、自分の執着する部分(自分が飢える対象)はこの説明通りだろう。薄々気がついていたことだが、このブログで考えを文章化することで自然と湧き出た結論だ。この結論の導出も、おそらく「組み合わせの妙」だろう。絵描きの独創性と一般化して言ってしまったが、正確には自分は成長の現段階で、最もこの点に飢えを感じると言った方がよいだろう。
 デューラーの「絵画論」では、描く方法にどれだけ彼が思索・飢餓していたか伺える。ああいうのを知れば、彼が求めていた価値基準というものは結果としての絵だけを見ても読み取れるのは難しいのだと思う。仮に読み取れるならば、その人は既に素人ではなく熟練者である。デューラーからすれば、結果としての絵自体よりも、形がなく抽象的な方法を第一目的で求めていたのだと感じる。結果としての絵は、より高尚な目的のための一つの実験結果に過ぎないといえるのかもしれません。より高尚な目的には、小我に捕らわれない普遍性があった。
 デューラーの文章には、当時、少数の本物といえる巨匠がそれぞれ持っていた方法論を彼らが秘していたことや、ギリシャ時代・イスラーム時代の巨匠が書き記した有り難い著書が「知識を愛さず憎む人間」によって失われてしまったことに、若干の苛立ちを感じさせることが多々あるのである。彼の意見には非常に共感できますし、そういった意志を僕は引き継ぎたいと思うのである。スタドラ的に言えば、やりたいこととやるべきことが一致したのである。

 英語の文法が厳密に定まっているように、絵の描き方にしても曖昧でいいわけがないのです。市販されている絵の教本には、どんな構図・ポーズであっても、同じ文法に沿って常に書くべきだ、そういう練習をせよと明示されていた。 
 世の中の絵描きには、絵の文法が未発達の人間と絵の文法を持っている人間とがあるだろう。自分なりの文法(方法論)の確立の有無が、絵描きの実力(=問題意識)を推し量る重要な要素であり、プロとアマチュアの分水嶺だろう。 
 プロとはどんな要求に対しても、ある一定以上のクオリティを機械的に、時間に比例して生み出せる方法論を持っている人間のことだと思う。そういう方法論を成熟させずに、〆切などを守れる安定した実力は実現しないと思う。

 自分の行ってきた方法が、自分の予定通りかといえば、全然そうではなく、がむしゃらにやっていたら何となく辿り着いていたといった感じだ。今になって成長の軌跡を分かりやすく話そうとしても、一つ一つの概念(圧縮化、模写の意義など)の説明はそこそこできるだろうが、どのように組み合わされて発展してきたかを時間軸に沿って記述することは難しい。いずれも並列していたような気がする。つまり、自分の境地を第三者に実現させることは難しそうだ。何より僕の成長の仕方は、万人が共感するには癖がある僕特有の「飢え」が選び取ってきた道なのだから、仮説的には結論をシミュレートできても、僕と同様の「飢え」がない人からすれば、ひどく苦痛な道だと感じ、作業を受付けないでしょう。逆に、僕には乏しい「飢え」が、ある人には狂おしいほどあって、その人特有の成長を促すのかもしれません。それは僕には真似できない。真似できないというか、真似しようとする意欲がわかない。僕にできることは僕に似ている少数の方々のために、僕というある種の飢え・癖のある試験体が、どのような刺激を求め、どのような応答をしたのかを明示して、大勢のなかの一例となることが精一杯なのかもしれない。
 提示しようとする方法論は、もちろん共感・普遍性を兼ね備えていることを望むが、その方法論を指示通りに完遂可能かどうかは各自の「飢え」によるのである。つまり、受け入れればできるが、受け入れないからからできない・・・そういう方法論となるでしょう。「飢え」は、生来的な要因・環境・境遇などそれこそ全く同じ条件を与えられた人はこの世に二つといません。だから、「飢え」の種類に良い悪いはないし、「飢え」は各自異なったほうがきっと面白い。
 上達の秘訣は、自分の「飢え」を正しく判断して(に素直になり)、満たすように習練することになる。私が確立したい方法論は、方法論を受付けるか受付けないかを左右する「飢え」にまで配慮されてはいないと思う。「飢え」まで作るとなると、それはその人の性格を根本から変えるという位大変な作業だろう。そういうのは、小中高学校の教諭など教育者が長い時間、手間かけてする仕事だろうね。だから、僕と同じ「飢え」を持ちえた人にA→Bという人の主観によらない運命論的な方法を提示できればよいのかなぁと思う。僕にしても、ゲーテ、デューラーなど、自分と親和しやすいと思う人の考えを受け継いでいるわけであり、そのような人生の師匠、自分が目指したいと思える人をまず探せっというような、既に多くの人が使い古した人生論的教訓となってしまう。
 極論かもしれないが面白い意見があります。「今生きている人間から習うことは一つもない、死んだ人間からのみ習え」という意見です。人は死んでからようやく、歴史から忘れさられていい些細な存在か、それとも、忘れてはいけない伝えていくべき存在かの正当な判断が客観的に下されます。だから、今生きている多くの人間は正当に評価できない主観に捕らわれたノイズの多い実験データなのであり、そこから本物のみの抽出は難しい、宝くじのようなものだ。しかし、時間の風化に晒された歴史から学ぶことは、ノイズの少ない実験データであり、本質のみを享受しやすいというのである。多くの年老いた成功者は、自伝や自分の考えを述べて書籍にすれば売れる世の中のようだが、多くの場合、既に語り尽くされた金言が自分の人生にも当てはまり、良い一例となりましたよっという報告書である。今の成功者が「論語」から学んだというのなら、次の世代の人も「論語」から学べばよいのであるが、今の社会は「論語」よりも「今生きている成功者の論語の劣化版」が手に入りやすい環境である。本が売れないというだけで「真理もあるが、生きている故に嘘や虚栄も含むつまらない新書」に「正統的古典」が排斥される現状では、不幸な思考を持たざるを得ない人間の増加に少なからず寄与している。成功者が小我に捕らわれて闇雲に自分を神格化して振舞えば、まだ力を得ていない若い人間は力強く成長できなくなると思うのです。
 「悪貨は良貨を駆逐する」に習えば、「悪書は良書を駆逐する」と言える。なぜ、悪貨や悪書が蔓延するのだろう。自分に甘く、駄目な自分を満足させてくれるから・・・だろうか。危機感・使命感・目的意識・静かな怒りを息吹かずに生きている人間が多く、当事者意識が薄れているから・・・だろうか。既に今は優劣を正当に判断する能力を失いはじめている可能性もある。本来、悪書か良書かを判断する際にお金は関係ないのだが、そこにお金が勘定されている。売れる見込みがなければ作れないことと、人間は過去よりも今に興味がある(実際、普通の生活では過去は間接的にしか見えない)という事実は、「何が真に価値のあるものかを判断する指標」を人から奪うには十分な条件である。一方、科学は普遍性・検証が大事なので、過去も現在も未来も比較的関係ないと思われる。だから、今、何かしらかの教本や評論書が販売されても、科学的裏付け、歴史的考察まで言及していれば、それはいつの時代にも通用するので価値があると言えるのである。言い換えると、小我から離れた内容ほど優れており、通用する、目指すべき境地なのかもしれません。『人間の建設』では、「自我が強くなければ個性は出せない、個性の働きを持たなければ芸術品はつくれない、と考えて色々やっていることは、今、日本も世界もそうです。いい絵がだんだん描けなくなっている原因の一つと思います。」と書かれており、小我に捕らわれることを勧めてはいない。今まで、私は「自分を捨てろ」と言ってきたが、また一つ、その文献的論拠が得られたことは喜ばしい。この確信がとにかく欲しくて本を読む。

 僕は最近、「才能」という表現の代わりに、「飢え」という表現を是非使いたいと思うようになった。「飢え」という表現は、三島由紀夫や北野武が使っていたからだろうけど、「才能がない」のと「飢えがない」というのでは、後者の方が僕の言いたいことがより正しく反映されていると思ったのです。そもそも「才能」って何だよって思っていたし。
 「飢え」って言うと、生来的な要因以外に、自分では中々自由の効かない環境・境遇にも依存しており、時価的傾向を伴うことが良いのです。「飢え」は、満たされる場合もあれば、満たされない場合もあり、変化あるものだ。
 「才能」は、生まれた瞬間に価値が固定されている感じなので、これはやはり現実の様相とは異なる。環境的要素を重要視している自分としては「才能」より「飢え」の方が好感が持てるのです。
 
 「才能」という言葉は、おそらく、問題にしている分野で「才能がない人達」が意思疎通のために考え出したのではないかと思います(十分な論拠は全くございませんが・・・)。才能のある人は、才能という表現を使う前に、もっと親切に分かり易い表現を使い、伝えようと努力するし、できるのだと思うのです。しかし、実際、その分野の知見に乏しい人に十分に伝えることは難しいだろう。才能のある人の、可能な限り噛み砕いた親切な説明でも伝わらなかった人が、なんとかその偉業を第三者に説明しようとしたら、「才能」とかいった曖昧な表現が便利なのだと思います。

↓ここは、以後洗練させていきます(工事中の日記)。

「歴史とは何か」(E.H.カー 著、清水幾太郎 訳)より抄録

 19世紀は大変な事実尊重の時代でありました。『辛い世の中(ディケンズの作品)』の主人公グラドグラインド氏は次のように申しました。「私が欲しいのは事実です。・・・・・・人生で必要なのは事実だけです。」19世紀の歴史家たちは概して彼と同じ意見だったのです。

 サー・ジョージ・クラークですら、歴史における「事実という堅い芯」と「それを包む疑わしい解釈という果肉」とを自分で対照させているのですが、きっと、果物は果肉の部分の方が堅い芯よりも有難いものだということを忘れているのでしょう。先ず、汝の事実を確実に手に入れよ、次に、無二無三、解釈という流れ動く砂漠に突進せよ―これが歴史における経験的な常識的な学派の最後の言葉であります。
→歴史における事実と解釈を、果物における芯(種)と果肉にアナラジーしているのは、上手な解釈だと感じた。事実のみでは皆を喜ばせるには弱いが、事実をどう解釈するかで皆は食いつくかどうか決まる。しかし、解釈を生み出す起源は堅固な事実なのであって、解釈から解釈を生み出すことは、いずれかの段階で腐り始め、誰も見向きもしなくなる。
 良い解釈を生むためには、面白い解釈ばかりに気をとられることはできない。無味乾燥かもしれない事実を集め、自分の庭に蒔くことに時間をかける必要があると思われる。歴史と果物のこのアナラジーは、これまで見てきた中でかなり上手い部類に当たる気がする。

 「正確は義務であって、美徳ではない」というハウスマン(1859-1935、英、古典学者)の言葉を思い出します。正確であるといって歴史家を賞讃するのは、よく乾燥した木材を工事に用いたとか、うまく交ぜたコンクリートを用いたとかいって建築家を賞讃するようなものであります。

 トルストイは『戦争と平和』の中でアダム・スミスに倣って次のように書きました。「人間は意識的には自分のために生きながら、人類の歴史的な普遍的な目的を達成するための無意識の道具になっている。」
 バターフィールド教授によれば、「歴史的事件というものには、誰一人欲していなかった方向へ歴史のコースを捻じ曲げるような性質がある。」
 ロッジは次のように書いた。「彼は参戦するつもりはない。しかし、事件に押し流されてしまうと思う。」「人間の意図による説明」や行為者自らが語る動機の説明を基礎にして、つまり、行為者がなぜ「彼ら自身の気持ちからして、このような行為をしたのか」を基礎にして歴史を書くことが出来ると考えるのは、一切の事実を無視することです。
→以下、「歴史は「べき乗則」で動く」(マーク・ブキャナン著、水谷 淳 訳)も踏まえる。
 歴史はどうやら、決定論的思考により説明することはできないらしい(つまり、経験知によって未来を予測する式が得られない)。個人個人の思惑の単なる積み重ね以上の何か不思議な力が働いているというのが皆が思っているところである。統計論的思考であるならば、歴史(革命、戦争、暴落、地震、山火事、巨大隕石衝突、種の絶滅など)の予測不能な出来事は数学的なべき乗則によって表現はできる。ある種の絶滅を保護することは大切であるが、その一方で、これまで歴史では、生命の99.99%は絶滅しているのだ。それも、巨大隕石衝突によって絶滅したのは全体のほんの一部であって、ほとんどの種がそれほど驚くべきことでない原因によって絶滅する可能性を秘めた不安定(臨界状態)な存在なのだ。隕石という仰々しい理由がなければ絶滅は起こらないと思うのはどうやら間違いらしい。

 べき乗則は、個人の詳細な情報を設定することを必要としない。どんなに個人個人がそれなりの意思で行動したとしても、この法則は堅く守られるようだ。正しいかどうかわからないが、一つ例を挙げる。100人のうち、20人が優秀ならば残りの80人は怠けるようになる。優秀な20人を集めると、その中から怠け者がまたある一定の割合で生じるらしい。この比率を知るためには、個人個人の情報はそれほど厳密に知る必要はない。

 ガウス分布が、なぜあのような関数として表現され、ピークを上手くフィットできるかを説明できる人はいるだろうか。私も十分できるわけではないが、ガウス分布、べき乗則、フラクタルなどは関連していると感じる。
 天変地異的な大規模な現象を引き起こせる状態を臨界状態と呼び、森を全て焼き尽くた山火事に対して、森林はそのような大火災を引き起こせる臨界状態であり、原子爆弾の原料となるウラン235が炸裂するための最低質量も臨界状態である。そこは、つまり、有機的なネットワーク・連関が緻密に育った状態である。臨界状態では、ある十分に長い時間で考えれば大地震というものは必然的に、誰も気にしない小さな地震と同じ原因でもって起こりうる。
 歴史家は第一次世界大戦の原因を、テロリストによるどこぞの皇子の暗殺だとした。しかし、大戦の規模に関しては、なぜその程度になったのかを説明できていない。場合によっては、もっと小さな規模(ヨーロッパだけとか)で済んでよいはずであるし、歴史家ならば大戦への発展を未然に防ぐ知恵を提案して欲しいものである。べき乗則によれば、世界情勢が大規模な戦争が起き得る臨界状態であったからだと説明される。情報化社会、グローバル化に比例して臨界状態はより敏感となったといえる。互いに相互作用しあうネットワークという構造そのものが、臨界状態を作りうるなら、脳内のニューロンネットワークは、アイディアを生み出す臨界状態に常にあると考えられる。アイディアは苦労して生み出すというよりは、必要十分なネットワークが組まれさえすれば自然にふと湧き出るものだ。苦労したと思っている人も、最後のパーツを偶然手に入れるまで「待つ」ことが苦労したのであって、アイディア・発想そのものは、まるで突然降ってくるようなものだ。これは大地震や株価の大暴落と同じようなシステムであり、小さな出来事が起きるシステムと全く違う特別な原理により引き起こされたものではないと説明される。

 統計論でいうとことの臨界状態の極限を考えると、決定論はその領域では成立する。爆弾に火をつければ爆発するという決定論的工程を実現しうる爆弾は、極限臨界状態まで組織化されていたといえる。
 統計論の臨界状態とは、確率的に大規模な変化を引き起こす可能性がある状態をいう。
 大地震など僕達の次元(スケール)で注目に値する特異的な変化の原因と、僕達が注目に値しない無数に発生している小さな地震の原因は、同じとされる。大地震に特別な原因は必要ではない。
 問題は、そのような取るに足らない原因を出発点として、どの規模まで発展するのかが確率的にしかわからないということ。同じ原因でありながら、地震の規模が決定できないため、日本は過去100年地震の研究をしても未だに決定論的に扱えない(予知できない)。
 臨界状態のさらに上を、超臨界状態といい、べき乗則には従っていると思われ、臨界が進むほど僕達の次元でいうところの大規模な変化の起きる確率は増えている。極限的な臨界状態となると、確率が100%に近くなり、原因→確率→結果という3工程のうち、確率が抜け落ち、原因と結果が1対1対応する。
 起きてしまうと、たいてい臨界状態を生み出していた組織(ネットワーク)そのものが壊れてしまうため(例えば核爆弾の連鎖反応)、不可逆的な挙動を示すようになる。



昨日、ジュンク堂で洋書買った。
「Diffuse X-Ray Scattering and Models of Disorder」というタイトル。高かったぞ! だけど、この本は愛せる気がする。

 巷に溢れている英語の学習書に対して、私が興味を湧く気質であれば凄く楽なんだが。私はそういう風にはできていないようでして・・・。こういう一見面倒な攻め方のほうが、どうやら身につくし、自分は耐えられると経験的に感じる。内容自体に興味があるものでないと読む気力が起きないからだ。英語が達者に出来ればなりたいが、どうやら心からそうとは思っていないようで行動に移らなかったが、いよいよ必要ですね。
 良い文章を見つけ、覚えようと思う。良い英文(自分が使う可能性の高い表現)の編纂活動となるわけです。英論文を書こうと思っても求められる文章が浮かんでこないんだよね。当然だけど。
 自分で英文を作ろうとしてはいけない・・・とよく言われる。なぜなら、作った文章は大抵間違っているからだ。作るより正しいものをまず覚えろと言われる。よくよく考えると、日本語の文章も自分であたかも作っているような感覚を受けるが、実は作っていないのかもしれない。典型文のような最低限覚えるべき文章を様々に組み合わせているに過ぎないのだと思う。
 あるアニメーターは言う。雪崩のシーンを描くことに迫られた場合、そのようなシーンのある映画を数本即座に挙げられるようでないとけいないという。こういう意見は、他者に正しく建設的な努力の方向性を示してくれるから助かる。
 ある漫画家は言う。自分が欲しいシーンは一体既存のどの漫画にあったかすぐに思い浮かぶと。検索能力が桁違いだ。
 自分で一から作るのは大変だが、一から作ったものが優れているという保証はない。むしろ、既存のものを多く知っており、その中から最善を検索し、それを参考にして自分なりにアレンジした方が大抵出来栄えはよい。

 話は空間整合性に移る。自分の目の高さは約160cmであるが、この時、地面を這う直線(道路と思えばいい)が自分から160cm離れている場合、その直線を紙面上に書くとどのような角度になるだろう。答えは45度。単純なタンジェント関数になるようだ。この知見は重要だ。なぜなら、絵を描くときに感性に任せて45度の傾きの線を引いたとしても、それは自分(カメラ)から見てどの程度離れた直線なのか言えるからだ。少なくとも、線を引く時に建設的な思考が伴っているだけでも進歩はあるだろう。
 直線と同じ方向を向いた時・・・、目(カメラ)の高さをa(cm)、直線と自分の最短距離をx(cm)、その直線を紙面上(キャンバス上)に描く際の傾きをθ(度)とすれば、以下のような関係式が得られそうだ。
   x=a・tan(90°-θ)
⇔x=a/tanθ
⇔tanθ=a/x
分かりやすいθ=22.5°(→x=2.412a)、30°(→x=1.732a)、45°(→x=a)、60°(→x=0.577a)、67.5°(→x=0.414a)だけでも感覚と理論を繋ぎ合わせたほうがいいと思う。θ=22.5°とθ=67.5°は関係がありそうだ。
tan(22.5°)-tan(67.5°)=2だからな。
一応これで、空間の収束方向に関しては制御できる。あともう一つは空間の圧縮率に関する知見。この二つを結びつければよさそう。今すっごい適当言っている。
 当然のように立式したが、たった4点(x=50cm, 100cm, 150cm, 600cm)から回帰式を作ってて測定も超適当だったから、実際には幾何学的に証明する必要があると思う。
 ということを考えていて、ふと思ったのはこれって測量学とかで既に基本的なことではないかということだ。ジュンク堂の測量の本棚に行ったんだが、行列計算、統計学を結構多用していたが、吟味する暇なく閉館だったな。次はもうちょい吟味しておきたい。しかし、ジュンク堂は今年の2月から23時まで営業するようになったのは嬉しい限りだ。

 線分を2等分するのは簡単だ。しかし、3等分の場合はやや苦痛である。
でも円弧を3等分するのは僅かながら楽である。なら、角度を3等分するのはどうかというと線分の3等分より楽な気がする。そこで私が思ったのは、線分の3等分は厳しいが、角度を感じる円弧なら3等分がしやすいのではないかと。こう思うのは私だけか・・・。

 そういえば、決定論に対して統計論というらしい。統計論は今ホットな分野です。
決定論は、実験系をより単純化(平衡状態=時間に関係しない系、変数を減らした系)して、法則を炙りだそうとする。ゲーテがこれに対して不快感を示したのは、当時の物理学者が人工的に作り出した単純な系は、もはや自然そのものなのではなかったからだ。自然に対して何も加工しない非平衡状態をそのまま捉える方が真実だと感じたからだと思う。とはいっても、単純化した系を作ることは優れた方法論だったわけだ。ゲーテが望んだ科学は統計論にあるのではないかと私は最近思うようになった。統計論は、地震の時期と規模、バブル崩壊の時期、歴史における革命や戦争、生物の絶滅時期と規模まで議論される。仮に決定論でこれらを攻めると、ラプラスの悪魔ですらきっと、数理モデルと変数の設定、寄与率の配分に窮することだろう・・・と思ったがこれは人間の発想・・・多分、この悪魔の総合力なら苦でないだろう。ラプラスデーモンが個の総合から全を導く(決定論的思考)なら、その逆、全体的傾向から個の挙動を導く(統計論的思考)存在が空想上いてもいいでしょう。人間にとっては、いずれの方法でも未来の予測は不可能だろうが。これらを両輪として使用する時代が来たら、それは次世代のパラダイムシフトにあたる気がする。

「科学は物事を説明しようとはしない。解釈さえもめったにしない。大抵はモデルを作るだけだ。(by ノイマン)」
こういうのを聞くと、今知っている法則式は、最も実験結果を説明できる単純な数式モデルに当てはめただけであって、自然そのものを表現したわけではないと感じる。でも、モデルを作れるような知識や技術は欲しいな。

「ヨーロッパの芸術文化全体を集大成して自己のものにする(by ルーベンス)」
「個人を超えた普遍的表現を信じている(by ルーベンス)」
「偶然的なものの排除と確実なものの選択である(by ルーベンス)」
ルーベンスは、絵描きというより科学者的な発言が多いようです。

 既存の知識を集大成して自己のものにする・・・とは、端的に言えば「編纂活動」なのであり、これはどの分野においても通用する姿勢なのだと思う。人の物を本当に我が物とすることでしか偉大な物は創出されない・・・とゲーテは言うが、ルーベンスと同意見となる。既知情報を効率的に取り入れるためには、絵を描くのと同じくらい本を読めってことになるのだ。今、私が持っているものだけでは足りない。
 大抵の場合、自分が発見したことなんてものは、過去の誰かが既に発見しているわけである。
 「真理は発見されて既に久しい(by ゲーテ)」
 「天が下に新しいものなし(by 旧約聖書)」
と遥か昔から幾らでもこの手の箴言は何度も語られている。何度も語られるのは、人間がそれを忘れやすいからだ。誰もが陥りやすい環境・境遇であればあるほど、誰でもそれについて皆と同じように知っている。そうであるならば、これからどういったものが新しくありうるのだろうか・・・。おそらく今の時代に、未来永劫、普遍的に役に立つ新しい創造(=天才的創造)をするには、既知情報をひたすら掻き集める編纂活動を通して、物事を総合的に判断できる境地にならなければ成し遂げられない。例えるなら、地上から宇宙まで上昇して、初めて地球が球であることが確かめられるような知見。普遍的な既知情報を100個集めた時に、初めて見えてくる一つの知見。一つの巨大な建築物を建てるかのように、過去現代未来の何世代もの人間が脈々とリレーのように代わる代わる協力し合い、いつ出来るかわからない究極を信じてコツコツと自分の役目を果たし死んでいく。私が世界を感じるときは、そういった昔から続いているイベントに新参者として協力しているときではなかろうか。系譜意識とはいい言葉だと思う。
 11個の世界を漏れなく見渡せる十一面観音様や、無限の変数を編み込んだ回帰式モデルを即興導出し、統御されるラプラスの悪魔は、正当な総合的判断が可能な憧れの存在であり、未来予知も朝飯前なのである。未来予知という表現は相変わらず人間の視点である。
 トルストイが歴史に求めたものは、雄々しく儚い物語なのではなく、歴史はどうあがいても今のようにしかなりえなかったという確信だろう。すなわち、歴史を知ることは広義的に「運命の法則」の検証だといえる。自分にもこの欲求は多分にある。僕が自発的に歴史を学ぶならば「運命の法則」の検証という大きな目的がなければおそらくたいして感興は生じない。歴史を自ら学ぶような珍しい人の中には、単に物語性を楽しむ人もいるのかもしれない。しかし、多くは何かしら問題意識がまずあって、それを解明したり、検証するために学ぶ人の方が多いのだと思う・・・。でなければ、まず本の選定基準すら持ち合わせておらず長続きするのか疑わしい。歴史を学ぶ本人は、そんな仰々しいものではなく、単に調べ物をしていると言うかもしれないですが・・・。
 未来予知という抗えば予定変更できる可能性がありそうな動的現象として捉えるのではなく、惑星の公転などの凝り固まった静的現象だと捉えるのが決定論的思想だと思われる。
 ゲーテは、既に知られていても素晴らしいものなら表現しても文句を言われる筋合いはない的なことを言っているので、既知情報がつまらないというわけではない。というのも、普遍的なものはいつの時代でも語る価値があり、人々が絶えず入れ替わる以上飽きられなからだ。そういえば、気象予報とかで使われるカオス理論って決定論らしい・・・。だから、本当に何もかがデタラメなカオス(混沌)ではない。量子において決定論が否定されているが、決定論的思考は有効でなくなったわけではない。誤差があっても関係式として表現する価値があるなら決定論を土台としているのであり、波動方程式は確率的決定論とされている。決定論は否定されて話は終わったように思われるが、結局、決定論的に考えられるような姿勢でなくては人間は基準を持たず、判断力のないものになってしまう。

 編纂活動をしていると、自分の経験が浅く未熟であるために確信にまで至れなかった観念を、遠い昔の年老いた賢者が堂々と断言していたことを知る機会が稀にある。この疑念から確信への醸成は、本来私自身が長い時間を掛けて将来得られるものであったのだが、全く知らない人の意見によって未来を先取りしたことになるのだと思う。観念・思想の先物取引だ。アルベルティの「エクセンペダ」や人体均衡論の「カノン」は、そこまで得がたい着想ではないが、概念自体が名前を持って存在していることは勇気づけれる。自己の成長の各段階で類似した発想はあったが、先人の考えを知ることでより意識的に課題として捉えられる心境になる。これは自分だけでは中々難しいことだ。

 右の絵には、自分の肉眼で被写体を見た時の視野全体(四角い枠)を簡単に上の隅に描いています。これは約4メートルくらい被写体から離れているから、被写体が私の視野を占めている面積は結構小さい。右絵の下に描いた絵は、それを拡大した絵です。全体の視野をまず書けば、自分が被写体に対して、どの位置にカメラをセットしているかわかるし、絵にする(画面上に描く)場合は、全視野のうち、どの領域を切り取るのかというように段階的に考えようと思う。つまり、絵を描く場合に、自分(カメラ)と相手の位置関係を常に意識しておきたいというだけです。僕は今までガンダムとか昔から好きで描いていたから近接的なイメージを思い浮かべ易いが、逆に、映画とかアニメでは望遠レンズで覗いて、拡大したような構図が多いようなので。

 ベルニーニは凄い。写真見て描いたが目標に達しなかった感じ。
本物見て描きたいです!!天使の腕がふくよかと感じる。

 美しいものは自然と描こうという意欲がわく。いざ描こうと思って資料漁っても自発的に描こうと思えるものは見つけにくいが、そういう探索しないときに限って見つかる。体調とか気分の問題かもしれない。
 美しいものは、自分の持っている原料の組み合わせでは決して構築できない要素を含んでいることを直感的に与えているのではなかろうか。美しい対象を凝視するのを止めた瞬間に、喪失感が起こり、自分の記憶の中の像がみるみる崩壊していくことが不愉快だ。私を惹きつけて止まない美しさの本質を掴んでいない僕には、脳内に対象を保存する機構がまだ確立されていないからだ。保存できる材料が集まれば、もはや対象そのものに固執する必要がない。実際、その対象以上の価値ある概念を手に入れたことになる。次の美しいと感じるものを我が物とするべく探し続ける。美喰屋とでも言いましょうか。

『絵は頭で描くことであって手で描くものではない(by ヴァザーリ)』とあるが、もっと言えば、理想的には『眼』も使う必要はないのだと思う。目をつぶっても筆は動くくらいでなければ『頭』で描いているとは言えない。模写の場合は、『眼』でよく観察することは必要となる(厳密には、法則性を抽出するので頭もフル稼働なのだが)が、模写でなく資料なしで描こうとする場合、目に見える紙面上の筆跡の情報を手掛かりとして描いているようではいけない。それはつまり、迷っており、定規を持っていないことを意味する。もっとも信頼し、優先させる情報(定規)は『頭』に既になければならない。この定規を作るために『眼』が必要になる。一旦、作られると『眼』は補助的になる。この感覚を感じてもらうためには、『自分の名前を書く』ことを考えてもらえるといいかもしれない。今まで小学校から散々書いてきた名前くらいなら目つぶっても書けてしまう。それも、頭を使っているという意識すらないレベルまで昇華されている思考となっているはず。
 しかし、特別に鍛えられていない通常の人間は、その定規自体が大変曖昧で、拙いので、『頭』だけで描こうとすると限界を感じる。最終的には、『頭』だけで描ける事が理想なのだが、素晴らしい定規を作っていない段階で『頭』だけで描こうとすると思い通りに描けない。だから、『眼』で定規を作り、『頭』で定規を使うという関係があり、ほとんどの場合、前者の方が初学者には重要であって、後者の状態が許されるのは定規がある程度完成した人間に限られる。後者の人達だって、常に、定規をより好ましく更新していく姿勢が必要でなくなったわけではない。成長を感じなくなった場合は、大抵、『眼』を使わなくなった状態が多い。その時の定規により『頭』で描ける限界を感じ始めた状態ともいえる。

 普段は絵を描かない人の中で、僕より『ピカチュウ』や『ドラえもん』や『ミッフィーちゃん』などを素早く、上手に描ける方は多い(但し、よくある絵の模倣の領域を脱しないが)。だから、『人』を描かすと上手いのに、『ピカチュウ』を資料なしに描いて、ピカチュウっぽくないことに驚かれる。そのギャップに驚くということは、その人の考える絵を描くシステムに少なからず迷信が混じっていることを証明していることになる。知っている対象は上手に描け、知らない対象は上手に描けない、といった当然の事実を信じておらず、神秘的・神話的な力が作用して絵を上手に描けるのではないかということを少なからず信じているのだ。
 定規の概念がないと、自分が何をどの程度描けて、何を描けないかを区別し、把握することはできない。絵描きが、知りもしないことをも上手に描けるという観念が、どうやら存在しているようだが、これは迷信だ。何をするにしても、こういった迷信を自分から極力排除する姿勢がなければ大成はしないと思う。迷信との勝負!!その迷信も堂々と認識できるのではなくて、迷信とまず思っていないからやっかいだ。大概、その迷信を他者に否定されると憤慨するレベルであることが多い。つまり、迷信なわけないはずで、自分を支えるものを迷信としなければならない場合もあるのか。こういった迷信を生み出す温床は、ルサンチマンとも言い換えられるかもしれない。ここでは、迷信をルサンチマンと置き換えてもいいだろう。
 ちなみに、『天才』という表現も迷信の一種だと感じる。その言葉で形容したところで、何ら物事の仕組みを理解し、説明できたことにはならないのだ。ただ、そう形容していれば、なんだか知れた気にもなるし、自分にその対象を評価できるだけの悟性があるという面子も保たれるというだけである。中世の中国で未知変数が一つの高次方程式の解法を『天元術』と呼ぶが、今でいう未知変数xのことを『天元』と呼んだのだ(天元とは、もともと宇宙を根底から支配し、揺り動かしている究極の原理・真理といった意味)。この意味に従えば、『天才』とは、未知なる能才を有する者という意味に受け取れる。『天才』という言葉で評価するのは既に滅んでしまった人間の価値観だ。世界を牽引しようとする人々は、『天才』という空っぽの言葉で騙せるほど従順な精神を持ち合わせてはいない。『天才』という表現を多用するならば、その人の問題解決能力はほとんどないと考えてよい。ただし、自分のことを天才と呼ぶならばそれは素晴らしい。わざわざ、そういった発言によって自身にリスクの大きい桎梏を課そうとすることは、保守的で月並みな理性では適わないし、根拠のない天才という表現が最終的な理由となる方法論しか持ち合わせていないとなると、そう言い続けるだけの成果と自信が持続するとは考えにくい。

『天使を描くためには、天使を見なければならない(by クールベ)』
この表現は、絵を描くシステムを端的に表しているように感じる。

 風邪引いた。多分、原因はスルメ。スルメを食ってたんだよ。で、ちょっと固めのまま飲み込んで、どうやら喉が傷ついたらしい。腫れてて、つば飲むだけで痛む。そんで、多分傷口から細菌なんかが入り込んで、頭痛、発熱、倦怠、不眠、吐き気を催した。
 今日は、風邪薬買って帰るわ。

 右の絵は、髪が乱れているんですけど、もっと立体感出したかったですね。指とか、髪とか、情報が多い部分を敢えて十分に描く事ができる以上のスピードで描こうとしていると、たまーに良い手さばきが生まれるときがある。この手さばきは、どういう思考経路で行っているのかという理屈を考えると非常に言語化しにくい。でも、どういった行動によって生まれたか、身についたか、ははっきりしている。それは、今自分ができる以上に速く描こうとした行動からである。

 自分が『出来る事・行っている事』ことが、自分が理屈を理解しているから実現しているわけではない。やっぱり、理屈を述べるのは危うい。自分をどこにでもある平凡な試験体という認識でもって、投薬実験されているという立場の方がいいか。試験体の精神よりも体の反応の方に興味がある。風邪薬飲んで、治る理屈を理解している者だけに効き目があるとかだったら誰も買わない。

 科学における理学と工学の関係も近しいものがある。工学は、現象の理屈を理解できなくても、十分傾向を予測できるなら大いに利用していこうという姿勢だ。理由を窮める理学も、探求して得られた結論が、『世界はそういう風にできている』と言えるに過ぎない。真偽を考慮しなければ、宗教の方が理由という面では人々の需要に適っているものと思える。

 デッサン会の絵が溜まっているので更新。右の絵はネフェルピトーっぽくなった。髪が難しい。時間的な制約もあるからシルエットを捉えるのがやっとでした。

 今期(秋)は結構アニメ見ているよ。インデックス、俺の妹、ヨスガ、綺羅星★、ざくろ、MM、そらおとf、神のみぞ、とらぶる、探偵オペラ ミルキィホームズとか見てる。ヨスガのソラルートは期待しているんだ。そのころも作画が保てるかどうかだけが心配。ヨスガのキャラデザは好きだな。キャラというよりは、アニメーターが描いたキャラデザの絵柄が好きだ。


以下、ラッセルさんからの引用です。

 独創性とは何か。天才と凡人の境界を引く行動・思考様式の違いとは何か。人はいかに成長し、求める技能を掌握するのかといった見解は多くの方が既に語られている。
バーラント・ラッセル『幸福論』p177‐から引用。

 あるとき、ソーセージ製造機が二台あった。ブタをこの上もなくおいしいソーセージに変えるために作られた精巧な機械だ。(ラッセルはここで、ソーセージ製造機を二種類の人間に例えている)
 そのうちの一台は、ブタへの熱意を持ち続け、無数のソーセージを製造した。一方で、もう一台は、言った。

『ブタなんかどうってことはないさ。私自身のしかけのほうが、どんなブタよりもずっと面白いし、素晴らしい。』

 彼はブタをはねつけ、己の内部の研究にとりかかった。本来の食物が入らなると、彼の内部は機能しなくなった。そして、研究すればするほど、内部はからっぽで馬鹿げたものに見えてきた。これまでブタをおいしいソーセージに変えてきた精巧な装置は、全て止まってしまい、これで一体何ができるのか、彼には見当がつかなくなった。

 この後者のソーセージ製造機は、熱意をなくした人に似ているし、一方で、前者の機械は、熱意を失わなかった人に似ている。精神は、不思議な機械であって、提供された材料を全く驚くべき仕方で組み合わせることができるが、精神は、自力で材料をつかまえなくては無力である。また、ソーセージ製造機と違って、精神は、自力で材料をつかまえなければならない。
 もしも、種々の事件が私たちの興味を掻き立てないのであれば、私たちはそれを全然利用していないことになる。従って、内部にのみ注意を向けている人は、注目に値するものを何一つ見つけない。一方、外に注意を向けている人は、たまに自分の魂を調べてみるようなとき、心の中に、限りなく多様で興味深い種々の成分が分析され、組み替えられて、あるいは美しい、あるいは有益な模様を作りつつあるのを発見することができる。 

以上です。

 僕ならば、人の心を『水』と例える。水だけではいくらかき混ぜて、放置しても何も生じない。しかし、日々、色んなモノをドッポン、ドッポンと加えていけば、水を反応場として、僕が望む望まないに関係なく、概念・思念が結晶化し、取り出すことができる。この作用は、半ば強制的・運命的であり、一旦起こした反応を止める自由も僕にはない。この性質を機械と表現しているのでしょう。熱意を失わなかった心というのを『熱水』と例えるなら、心は鉱脈と同じ状態と言える。熱水は飛躍的にモノを溶かす。水熱合成に対応する。こうして得られる多種多様な鉱物の一部は宝石に成り得る。
 質量保存則というのがあるが、潜在概念量保存則というものがありそうだな。(厳密には、質量欠損があるから結合が入れ替わる際に質量保存は成立しない)なんにせよ、ラッセルのこの説明はシステマティクである。人は外からの取り込みなしに有益な情報を一切生み出せないといってる。しかし、人は、特に若い頃は、無知ゆえに根拠なく自信に満ち、自分に無限の可能性を信じている感覚はあった。ラッセルの説明は、真実かもしれないが、魅力的かと問われると腑に落ちない。僕はどこかで決定論を強力だと思う傍ら、それを断ち切る存在に憧れている。まだ、心が若いからかもしれない。

 
 最近は、足が描ける様になってきた。何も見ずに描けはしないが、見ながらであれば以前より抵抗が少なくなった。髪の毛が難しい。立体感を出しつつ、線数を少なくして描くのであれば、植物の葉っぱが何枚か覆いかぶさった感じで大まかに描くのがいいのでしょう。生え際の線が頭をどのように走っているかを念頭に置かないとね。恐らく、まず、頭に線を数本引く。それを生え際として描くことで違和感なく仕上げる経験を積まないとね。

 新しいブログ作りました。フィギュアとか作りたくなって。将来的には、フィギュアに関わらず立体物の造型でもしてみようかなと思っています。
 名前は『天変★綱目』です。リンクに追加しておきます。

 あと、そろそろ本腰入れて、人体の比率を統計処理から割り出そうと思います。統計処理に必要な母集団の情報はどこからいただくかが問題ですが、これは無償で提供しているサイトがありますので、そこから拝借したいと思います。一方で、商品としてデータを販売するところもあるようです。例えば、体の部位約170項目の寸法をエクセル形式で販売し、一人分のデータは100円。50000人なら五百万円。統計的には集団が大きいほどバラツキが小さくなる。しかし、100人でも1万円ですからね。メーカーが椅子や机などの人の形状に関わる商品を作る場合に、そういった情報は不可欠だろうからメーカーは買うのかなぁ。

 目標は、年齢と人体の比率の関数化。年齢といったけれど、胎児の段階から考えないとね。なんとしても近似式を見出してみせる。というか、既に知られていてもいい気がするんだけどなぁ。アカデミックな論文ならもしかしたら既知情報かもしれんが、使っている情報源が異なっているならやる意味はあるだろ。というか、結果よりも導出工程を味わうことが重要なんでしょうけど。そういった意味では、簡単に得られる情報でなかったことは、自分で導出しなければならないという動機を与えてくれて好都合だ。残るは、実行に結びつくまでに、自分がそれが必要だと真摯に感じる感性を持ち合わせていることが問われている。
 関数はまず得られると仮定して、僕がそれ以上に何に期待しているかというと、例えば年齢が500歳とかになった時の人体形状とか現実的に起こりえない空想がある程度の根拠を持って得られるという点です。まぁ漸近するのだろうが。関数になれば、極限値とか求められる。

 デッサン会では確かに感性に訴える印象が強いです。目の当たりにする肉感や存在感は描き手にとって最上の情報が得られているという実感はありますし、今の状況を作ってくれた人達に感謝しています。一方で、統計値を算出できるデータを調査してくれた人達にも感謝です。これからは、特に、この二つの作業を連立して行います。

追記101110
0.模写の技術
→与えられた情報を正しく取り込み、取り出すこと。一切の自己主張はいらない。自然の代弁者となれ。

1. 構造の理解
→人体解剖図の模写。構造を知ること。構造を知らずに上辺だけ似せた絵は、結局のところその程度でしかなく、その理解の程度は素直に絵から読み取れる。構造の理解は満たすべき最低条件である・・・と言いたい所だがそれぞれの目的に見あうだけ善処すればって感じ。ここの部分は僕の執着の方が異常。

2. 構造の抽象化
→構造の精密な把握をしたなら、今度は実際に自由にかけるような方法が要請される。1.から求める終点は知っているのであり、終点に至る工程、ルールを考える。私は抽象化がそれに当たると思う。複雑な人体を簡単な図形に置き換える。→4. 遠近法との融和

3.ルールの理想化
→恐らく、それぞれの経験・感性によってルールを決めても、そこそこ終点まで達せられるでしょう。しかし、ルールも理想があるなら、それに従うほうがよい。私は、統計データに基づく抽象化が必要だと考える。ここで、理想とは定規であり、理想でないものを描くために必要となる。単位のようなもの。

1,2,3はいずれも0.模写の技術が拙いと成立しない建築的な作業である。模写の技術力に応じて、建設できる搭の高さが決まる。自分より模写が上手であり、上手に利用できる人間にこそ本当の恐れを覚える。

 デッサン会はいい勉強になります。頭の中で、逐次的に理論値と実測値の擦り合わせをしてるんだろうな。この計算処理スピードは相当速い自信がある。でも、スピードよりも理論モデルの完成度のほうが重要でしょうよ。
 観察よりも理論が優勢になると、対象を見る時間が大幅に減少する。対象を見る時間が減ることは、模写を行う上では悪い習性である。理論を信頼し過ぎると、もの自体をよく見なくなることから拙い理論を改変する機会が減ることになる。
 理論の創出起源はどこにあるか。理論はそもそも、対象をじっくり観察することから経験的に得られ、体系化された知識なのです。理論を過信できる状態まで理論が発展したからといって、対象をじっくり観察しなくなるのは、『理論を過信できる状態』に至る起源を忘れた愚かな姿勢だ。そういった人間は、最近成長が感じられないと言う傾向があるのかもしれない。今まで、感じらていた成長の起源を知らずに成長していたのだろうと思う。

追記101107
『逐次的に理論値と実測値の擦り合わせをする』という部分についての続き。

 絵を描く感覚はスポーツに近いと思われる。野球でもスイングのフォームを自分のビデオを見ながら、理想に向けて日々どこが悪いのか修正し、体に覚え込ませていく。理想というものを設定して練習してはいるが、実際の試合でバッターとして打つ時には、体が無意識に理想通りのフォームを行うようになっていなくてはならない。
この無意識の動作(なんとか打ってやろう位は考えているだろうね)を、理屈で説明するのは結構難しい。ピッチャーが投げてから打つまでの短時間の思考を表現するならば、『無心』『体が勝手に動く』というのがピッタリでしょう。モノを考える神経回路を介さずとも、待ち受ける障害に対処できる洗練された思考経路なのでしょう。『高次の条件反射』と言えるのかもしれません。

 僕は6年間キャッチャーしてきたから、野球のことはよく判っていますが、もっと誰でも分かりやすい題材がありますね・・・『歩行』です。あなたはどうやって歩いているのか説明してくださいっていうのがいい例ですね。正解は『何も考えてないよ』でしょうね。理屈を持ち出すとおそらく感覚的には嘘になる。でも、僕たちが初めて立ったり、歩き始めたりした当時は、相当試行錯誤したのだと思います。当時は、歩き回る大人達を見て模倣し、感覚から得られる経験知・理屈を最大の武器にしていたのではないでしょうか。

 実際に絵を描いている最中も、完全に『高次の条件反射』とはいかないまでも、体が覚え込んだ機械的処理の部分が多々あると感じます。ここの部分をあえて説明しようと思うと、都合の良いコジツケとなる。だから、自分の主張が、単なるコジツケとなっているかどうかは細心の注意を払う必要があるのだと思います。
 ここで、僕が特に強調したいことは、体が覚える『高次の条件反射』に至るまでに、自分が採用するべき理想を探したり、作ったりする作業は『作品を仕上げる』という行動以上に時間を割くべきではないか・・・ということです。現実的には、両者を同時にこなすのが最良でしょうね。

 個人の感想・感覚を言った所で、それを他者が応用できるとは思えない。実際、上手に出来る人間は出来てしまうが故に、見当違いのコジツケ・理屈を主張しても一目置かれる保証があるし、主張内容もそれらしく聞こえる場合がある。出来る人間は自分がいかに『天賦の才』があるかを強調したいがために、脚色して大げさに表現しようとするかもしれないが、出来ない人間にはたとえ嘘だと分かっていても無視しきれない意見に感じられるのです。
 極力、嘘をつかずに他者に技術的な進歩を提供するために、自分ができることは、自分の掲げた方法論(何を参考にし、どのような行動をしたか)を明示し、それに対して、どのような効用がどの程度得られたかを絵(実力)で示すことだと思っています。そうであれば、たとえ僕が失敗しても成功しても、貴殿の貴重な時間を節約できる位は役に立つと思うのです。

 誤解を恐れずに言ってしまえば、僕の『感想の記述』は無視してもらって構いません。僕をモルモットのようなサンプルに見たてて、与えた『条件』に対してどのような『反応・結果』を起こしたかを注意して淡々と見て欲しい。モルモットの個人的な意見は様々だろうが、条件→結果だけは一意的だろうと思います(一意的になるように条件を厳密にするといった方が正しいのでしょうが)。
 意見が様々なのは、モルモットの経験・境遇・環境・教養・人間性などにより表現の幅が個人個人で偏りや制限があるから仕方がない。

 ガンダムUCの第二話でシャアが『私は自分を器だと規定している』とか言っていたんですが、こういうことを言わせる台本を書いた人はよく知っているなぁと思う。

 無個性への求心、アイデンティティの能動放棄、独創性への無関心という思想が働いているのではないか。哲学者(実際は、兼数学者とか兼自然科学者、兼政治家など色々なことをしている人が多い)は、既存の誰もが疑わず信じている概念を否定し、自分の見方も一つの真理だと主張することが仕事のようなものだが、そういった中でも比較的否定の余地がなく、多くの哲学者が語っている主張はありそうだ。それが、この辺りなのかなぁと思っています。

 どの哲学者の主張も、その哲学者自身が単独で思いついたわけではなく、彼らが生まれた背景・地盤を考慮しなくてはならない。だから、誰かと誰かの意見を比較する場合、どちらが先に出生したかということを確認することは結構重要だと思う。


 ゲーテ(1749-1832)は『ゲーテとの対話』で独創性などないことを言っている。以前、神保町でゲットした『人間ゲーテ(小栗 浩[1978年])』はゲーテの言うところの『独創性・天才』の捉え方を知る上で優良な本です。
 以下に、心に残った文章を引用。思想がもう血肉と化しているから僕の言葉で表現することも可能であるが、引用の方が力強く、興味も持っていただけるかもしれないという配慮のもと引用します。

『天才とか独創とかいうことがよくいわれるけれども、そういうものは全て、父母だけでなく外界のあらゆるものから学びとったのであって、そういう他からの感化がなければ天才などありはしないのだ、といっているのである。』

『独創独創とやかましくいうが、およそ誰でも自分の身に備わっているものはみな人様のおかげなのだ、そのことを忘れぬようにしたまえ。』

『世にいわゆる独創などといったものがその名に値しないことをわかりやすく言うために、ゲーテは冗談交じりに父母の性質を自分に結びつけていっているだけであって、この文句からゲーテの性格の説明を求めようとするのはよほどの見当違いということになる。』

『ゲーテは、独創を誇る詩人思想家があとを絶たぬのに業を煮やしたらしい。特にロマン主義者たちの独善的な天才ぶりは腹にすえかねたようで、しばしば寸鉄の矢を放っている。』

『むろん、独創が悪いのではない。しかし、既に多くの英知が語られているのに、なぜそれを手に取ろうとせずに、わざわざ目をつぶって通り過ぎようとするのか。大切なのは、誰がそれを始めたかではない。それを本当に我が物にすること、それを自分の人格に取り込み、自分の生活に生かすことが重要なのである。』

『昔のものであれ今のものであれ、詩人が自分のものとして悪いものがあるだろうか。せっかく花が目の前にあるのに、それを摘むのをなぜはばかるだろう。人の宝を本当に我が物とすることによってのみ偉大なものが生まれるのだ。』

『そういう落ち着いた英知はゲーテの晩年のものだといわれるかもしれない。しかし、彼はその青年時代から、模倣といって悪ければ換骨奪胎の達人であった。先人に学ぶことによって自己の個性を発揮するという点でこそ彼は独創的だったといってよい。』

 あぁー、ゲーテとお話したい。語り合いたい。エッカーマンいいなぁ。エッカーマン自身は決して勉学を優先できるほど裕福な家庭に生まれたわけではないが、大人になってからも午前中に高校(周りは若い学生ばかりの中)、午後から役所で仕事する生活を長年過ごした。ゲーテと出会い、秘書をする傍ら、名著『ゲーテとの対話』を書き上げた。彼がいなければ大著『ファウスト』の完成もなかったかもしれないとゲーテ自身が語っていた。ゲーテの士気に貢献したんだな。

 以上は、ゲーテの信念であるが、マーク・トウェインやバーランド・ラッセルも彼らの著書で同様の信念がありそうだなと見受けられた文章を以前見つけた。もちろん、表現はそれぞれですが、次回はそのあたりを報告します。

 そういえば、引用について調べたんだが、引用するためには7つほど制約条件がある。いずれも満たしていると思う。

 ゲーテは色彩論も展開してて、ゲーテ自身、当時主流だったニュートンの光学よりも真理だと考えていたようだ。法則性を顕在化させやすくするために、人工的に環境を制約し、原因となる変数を少なく出来る系を科学者が考案し、作るのであるが、その行為自体が自然を素直に見ることを妨げていると感じるのだ。ゲーテはその辺りの繊細な部分に興味があり、イリヤ・プリゴジンらが言うカオス、フラクタルに繋がる分野にゲーテは早くも着眼できる素養があったのではないだろうか。
 行列力学の創始者ハイゼンベルグがゲーテの詩を吟じ、ゲーテを題材とした著書『科学-技術の未来 ゲーテ・自然・宇宙』を書いている事は、決定論からの脱却に、ゲーテの思想が働いたように思える。

また、キチガイ染みたことを述べます。

 決定論(運命論)・虚無主義を基底状態として、神秘主義・汎神論を励起状態とする心境が出来上がっちゃいました。もはや、恋に恋する乙女の心境だ。
 選び読んだ本の積み重ねの結果であるが、僕の自由意思によって得られた結果と言えば傲慢だと言えよう。結果の原因を自分に求めるのは既に間違いだ。僕はそんなに特別な存在じゃないだろ。残念ながら、運命を統べる白き糸を紡ぐ手は持ってはいない。ある人間(サンプル)が今の世界に知恵を求めれば、大抵、僕のような心境になる世界になっているという見方が正しくて、その方が人間がいかに無力な存在かを自覚した謙虚さが伺える。

 今までふつふつと思っていた僕の傲慢(or謙虚)な考え方を言おうと思う。もちろん、この考え方の背景には、上記の基底状態と励起状態が錯綜している。

 第一に、『上手い絵が描ける状態』と『下手な絵が描ける状態』は、等しく特別な状態といった価値観を推薦したい。普通は、人間が勝手に『上手い絵が描ける状態』を優れており、困難だと判断しています。
 例を挙げます。今、地球人的な芸術的感性はないが、非常に理性の働く宇宙人に『下手な絵が描ける状態になってください』と要請することと、『上手い絵が描ける状態になってください』と要請することは、いずれも宇宙人にとって同じくらい熟考・吟味する必要がある課題なのだということである。どちらも決して簡単ではない。結局、人間の言うところの『下手』とは、理性を働かせていない行動結果と換言できよう。
 例に宇宙人を挙げたが、他の例として、絵を自分で描けるロボットを作ろうとする場合も、この価値観は惹起されやすいだろう。下手な絵を描かせるために、どのようにプログラミングするか。

 第二に、自分が理解できてない(or知らない)事柄は、大抵、周囲の人間も理解できていない(or知らない)から、今の自分も理解できていない(or知らない)状況なのだという考え方である。この意見は、横着で、他力本願と感じる方もおられるだろう。でも、人が持っている知識の99%は誰かしらの借り物にすぎないのは事実でしょう。今まで借りた概念を一つ一つその起源を辿り、貰った人に返し終わった時、自分発祥の概念などほとんど残っていないだろう。自分発祥の知恵があったとしても決して無から生まれたわけではない。その発祥の起源・契機は他人が育て上げたものというのも少なくないだろう。
 この考え方は、まず、個人単体からの無限とも言える知的情報の洪水の幻想を捨て去る。ハルヒは幻想なのであり、ハルヒが存在するなら、確かに彼女は、人間ではない。
 ある人がパソコンに詳しいなら、そういった情報を圧倒的に感受しやすい境遇・環境が一般人に比べ、過去に存在したと考えるのだ。決して、その人自身の万能性・生来性に依拠するとか思い違いをしてはいけない。

 さらに、この考えに基づけば、分からない自分を『ダメな自分だ』と自分を責めることは、大いに間違っている。加えて、第一で述べた考え方に基づけば、『あなたは、ダメな自分の状態を自分で選択できるほど自由な世界には居ないんだよ。もし、これ以上、自分はダメだと責め続けるのなら、あなたは自分が運命(自分の意思でダメな自分の状況を作り出したということ)を操れる器があると思っていることになるんだよ。』となる。
 河原に落ちてるゴツゴツした石が、周囲のスベスベの石を見て、『自分はスベスベになれなくて本当にダメな自分だ』と言っているようなものだ。再三言うが、スベスベかゴツゴツかは、気まぐれな河川の軌跡が決めるのであって石ではないのである。

 ただ、以上を持ってすれば、どうすればダメな自分を脱却できるかは検討がつく。赤くなりたければ、朱に混じるような状況に自分を置けばいい。

 朱に混じっておきながら、赤く染まらないのもまた大変なのだ。というか、人間に赤く染まらないかどうか選択する自由などない。そういった抗えない力が働いている。


(追記101104)web拍手返信
●真昼さま
 お久しぶりです。お元気ですか? web拍手見れるようになっています。すみません。拍手ありがとうございます。
そういえば、真昼さんのリンクを今更ながら気がつきました。僕の陰湿・内向的な感じとは対照的に、クールでアウトプットな感じで驚きました。ちょっと拝見させていただきたいと思います。



先週は、コスプレの好きな女性がモデルでした。


 私達は中学生ぐらいから、無意識にしてもアイデンティティーの確立を目指してきたらしい。自分が好きな人、芸術、スポーツなんでもいい。人はアイデンティティーを否定されると、自分を馬鹿にされたかのように怒り狂い、落ち込む。なぜなら、その否定は私の否定と同義であり、それだけ自分と融和しているのである。自分を否定した相手は、自分にとって不快を与える許し難い存在だ。否定には否定で応えてやろう。事の真偽ではなく感情を優先したいのだ。
 若い頃は、偶然自分の知りえたことが世界の全てであり、世界の本性だと思ってしまう。現在の自分が持つ価値基準は十分洗練されており、常に正しい解答を弾き出すという脱し難い観念を、結構な自信で多くの人が持っているのは事実だ。これは仕方がないことだが、そこから情熱・使命感が湧き上がるのならば、年相応の好ましい勘違いである。

 今になって思うのは、次の精神的成長の段階として、今まで培ってきたアイデンティティーを能動的に放棄(取捨選択)できる精神構造へ変遷することではないかと感じるのです。
 自分が本当に空っぽだった頃は、自分を形作るものが一つもなかった。ようやく手に入れた自分の欠片の真偽の検証は問題ではなく、ただ専ら大事にするが重要なのだ。しかし、年齢を重ねるにつれ、色々な素晴らしいものを手に入れることができた。比較ができるのだ。もはや、最後の一滴のように自分の欠片に固執する必要もなくなってきた。今までは、この最後の一滴が、偽物であっても私たちは盲目的に信じ、守ってきたのだ。

デッサン絵を更新。

 私は絵を描き始めた当初、方法論なども持ち合わせておらず、唯一、自分の感性・直感のみを頼りにせざるを得なかった(直感以外に選択肢はない)。模写を行うことで自分の欲求を満たす程度の絵が得られることには薄々気がついていた。

 私は、第一に感性・直感を大事にしている。しかし、絵における方法論を人に伝える時に、『感性・直感』を引き合いに出して説得したり、他者の姿勢の否定を行うことは建設的ではない。といっても、未知の物事を学究する初段階では、人は自分の感性に頼ることしかできないのも事実だし、誰でも自然にそうしているものだ。

 古き良きものから学ぶ系譜意識は大切だ。学問にしても、今から基礎的実験を自分で一からするのは時間が許すなら当然行ったほうがよいが、現実的には、50年位前~現在までの良書を10冊くらい読むほうが効率的だ。このことは科学では常套であり、どの教科書も『直感』という表現での説明はされてはいない。直感は契機であって、尤もらしい理屈・説明は数式で簡潔に書かれている。では、この数式モデルに辿り着いた学者は、感性を一切持ち合わせていなかったのだろうか。そうではない。恐らく、鋭い感性によって自然現象を素直に捉え、最も法則性が顕在化されるであろう実験系を空想する過程があったろう。結果として伝えられる、誰もが利用可能な普遍的な数式からは、人の持つ感性とは相容れない印象を受けるのかもしれない。それは、運命を決定づける力を有し、人の意思・努力などで崩せる因果律ではないからだろう。即ち、この領域において自由意志は無力。しかし、そういうものが、万古不易、どの時代でも語られ続ける概念として、歴史の審判を耐え得るものである。

 絵画の歴史でも、特に14-16世紀頃にこういう発想の人達がいる。デューラーの『絵画論』では、序文で彼のスタンスが述べられている。彼は人物描写で得た法則をささやかながら披露するので、後世の人々がさらに修正・発展させ、完成度を上げて欲しいという願いのような文章を書き綴っている。この要望に応えようとする人間が今までいたのだろうか。現代においては、そんなことよりも、『自分らしさ・独創性』を求める方が多いのではないでしょうか。自分の感性は人より優れていると盲信し、勝手気ままに描いた絵が評価される優しい世界なら、確かに多くの人が望む所なのかもしれない。

 ゲーテは『独創性などない』と言い切っている。この見解に私は大変感銘を受け、渇望していた信念であると感じた。ゲーテは、当時、ロマン主義として出現した若者達が、過去の良いものを一切無視し、ただ自分達の感性のまま表現しただけの作品を掲げ、居丈高となっている状況に遺憾の意を示した。若者達はひたすら自分達の独創性を謳う。ゲーテはこのようなロマン派の作品は一時的で脆弱、病的なものと揶揄し、一方で、古典(クラシック)を普遍的、健康的で正統だと言っている。この風潮は、絵や詩だけでなく、音楽の分野でも同様であることを、とある若者が作った曲をモーツァルトに評価してもらう話を例に挙げて説明している。
 ゲーテの箴言で『真理は発見されて既に久しい(遺訓より)』というのがあるが、これは、過去の偉業を無視し、習うことを知らない若者が、自分の再発見を自分の手柄として認めろという図々しさへの戒めに聞える。
 独創性の発生メカニズムをよく考える必要がある。多くの場合、作品を作る側ではなく、作り方・歴史をよく知っていない受けて側の感想に起因していると推察している。
 自分で自分の独創性を判断するにしても、過去に全く着手されていない真に未開の分野なのか、それとも、過去の誰々の発想の延長線上にあるのか、など相対的に考える視野・知識が必要だ。自分の力の起源を忘れるな。

 これらの方々が今の自分の価値観・信念を形成する核となっているのでしょう。私は、絵に独創性ではなく、無個性を求める。僕にとっての無個性は、無知な人にとっては独創的だと写るだろう。それは、僕が作品に盛り込んだ思念を完全に分解・読解できないからだ。分解できるほど哲学的思考が鍛えられていないからだ。そういう場合、多くの人は『天才』などという、持て余す曖昧な言葉で自分自身の理性の欲求を満たし、思考停止となることで心の平安を獲得する。分解できる慧眼の持主は、僕の作品に面白みを感じず、ビリヤードのような力学的予測が可能な退屈極まりない系の振る舞いにしか写らないだろう。ラプラスやゲーテだけではないが、多くの偉人は悪魔と正面から向かい合い、飼いならしているという仮説が私にはあるようだ。

 私は、直感を最大限に発揮した分析により、誰でも理解・利用できる理論に還元・総合することに努めたい...という立場です。ただし、無個性を競う人達にしてみれば、僕の絵は僕らしさがまだ臭い立っていると言われそうですが。


 最近は二週間に一回くらいデッサン会に参加することがあります。
上の絵は、2分間のポーズで描きました。

 自分の描く線が、結果的に『正しい線』となっていく。『正しい線』というのが先行して存在しているのではない・・・という感覚が訪れる。一つの線には、それ単独ではなんら意味・価値は持ち合わせていない・・・という勝手な仮定に基づく(論証する気はさらさらないが・・・)。意味・価値とは関係の中にある。その関係を探し求めるという目的意識が根底にあることが肝要。一見、形として認識にしくい抽象的な『関係』の真価に魅入られた人は、いい仕事をするだろう。
 関係が手に入れば、私は無量の幸福感が味わえる人間のようだ。
 


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・異分野の本物の人間に会いたい
・真理編纂活動
⇒私の確信・直観の正当性を歴史の焔に焼べる。燃え残った"鉄塊"を我が真善美・規矩とする・・・そういった孤独な火遊びって意味。

確信・直観の裏付けのための書籍。即ち、焚き木。
■ 美の本体
(岸田劉生)
■ 自分の中に毒を持て
(岡本太郎)
■ 人間の建設
(小林秀雄、岡潔)
■ 人生の鍛錬 小林秀雄の言葉
(新潮社 編)
■ 現代語訳 学問のすすめ
(福澤諭吉、訳:斉藤孝)
■ 努力論
(斉藤兆史)
■ 努力論
(幸田露伴)
■ 機動戦士ガンダムthe ORIGIN
(安彦良和)
■ 創造への飛躍
(湯川秀樹)
■ 行動学入門
(三島由紀夫)
■ こころの処方箋
(河合隼雄)
■ ニーチェ入門
(竹田青嗣)
■ 大衆の反逆
(オルテガ)
■ ゲーテとの対話
(エッカーマン)
■ 人間とは何か
(M.トウェイン)
■ 思考の整理学
(外山滋比古)
■ 文芸批判論
(T.S.エリオット)
■ 歴史とは何か
(E.H.カー)
■ 幸福論
(V.ラッセル)
■ 共感する女脳、システム化する男脳
(サイモン・バロン=コーエン)
■ 人間性の心理学
(宮城音弥)
他、少々。

絵のための参考書
★ プロメテウス解剖学アトラス
(坂井建雄、松村譲兒)
★ やさしい美術解剖図
(J.シェパード)
★ やさしい人物画
(A・ルーミス)
★ 漫画の教科書シリーズNo.3リアルなキャラクターを描くためのデッサン講座
(西澤 晋)
★ The Art of Drawing
(Willy Pogany)
★ ANATOMY AND DRAWING
(Victor Perard)
★ デッサン学入門~創意の源泉を探る~
(南城 守)
他、少々。
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