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  <title type="text">極上♥餡蜜</title>
  <subtitle type="html">101101～web拍手復活しました!</subtitle>
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  <updated>2006-03-07T11:55:23+09:00</updated>
  <author><name>ごんきゅう(権窮・GONQ)</name></author>
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    <published>2011-07-25T21:38:35+09:00</published> 
    <updated>2011-07-25T21:38:35+09:00</updated> 
    <category term="デッサン" label="デッサン" />
    <title>110725</title>
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      <![CDATA[<a target="_blank" href="//gokujoanmitu.blog.shinobi.jp/File/e19714eb.jpg"><img border="0" alt="" src="//gokujoanmitu.blog.shinobi.jp/Img/1311597488/" /></a>]]> 
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    <published>2011-06-20T20:28:00+09:00</published> 
    <updated>2011-06-20T20:28:00+09:00</updated> 
    <category term="遠近法" label="遠近法" />
    <title>距離と大きさ</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[<a target="_blank" href="//gokujoanmitu.blog.shinobi.jp/File/12e9789e.jpg"><img border="0" alt="" src="//gokujoanmitu.blog.shinobi.jp/Img/1308569213/" /></a><br />
<br />
&quot;対象の見た目上の大きさ&quot;と&quot;距離&quot;について纏めた。<br />
<br />
(1) 人間の視野角(画角)<br />
水平方向：200度<br />
垂直方向：125度<br />
見えるのは比較的広範囲だが、実際に意識的に認識している視野はもっと狭い。<br />
色々説はありますが、標準レンズの25～50度程度の見え方が映画のようなスクリーンで<br />
見た場合、違和感が少なく、通常見ているような感覚の画角らしい。<br />
<br />
(2) モノの大きさは距離に反比例<br />
　異なる大きさの物体が複数あれば、それぞれの見た目上の大きさは、関数y=&plusmn;a/xに従って振舞う。<br />
aはそれぞれの物体の固有の大きさ。y:見た目上の大きさ。x：対象との距離。<br />
　同じ大きさの物体2個が近くにある場合、広角レンズを覗くことになるが、グラフからも&quot;見た目上の大きさ&quot;が距離の差に敏感なのがわかる。<br />
　逆に、遠くにある場合、望遠レンズで覗くことになるが、グラフからも&quot;見た目上の大きさ&quot;が距離の差に鈍感なのがわかる。また、密に重なって見え始める。<br />
<br />
(3) レンズと視野角(画角)の対応<br />
<br />
超広角(魚眼)レンズ：100度以上<br />
広角レンズ：50度～100度<br />
標準レンズ：25度～50度<br />
弱望遠レンズ：15度～25度<br />
中望遠レンズ：8度～15度<br />
大望遠レンズ：0度～8度<br />
<br />
一つの目安として、1度の画角の作り方について以下に述べる。<br />
・1メートルの棒が1度に見えるのは、目から57メートル離れている時である。<br />
・1キロメートルの棒が1度に見えるのは、目から57キロメートル離れている時である。<br />
つまり、物体を1度の角度に収めるには、物体の大きさを凡そ60倍した距離まで離せばいい。<br />
<br />
ちなみに、<br />
・満月のお月様の幅をちょうど覆う画角は、約0.5度である。<br />
・腕を前に伸ばして人差し指を立てる(眼～指の先端=約60cm)と、その指の先端の幅(約1cm)に対応する画角は約1度である。<br />
　よって、伸ばした手の指の先端と満月の月とでは、指が月をスッポリ覆う計算になる。<br />
脳の錯覚の影響もあるが、月は思ったよりも視野角を僅かに満たすだけ･･･月は思っているより大きくない。月がきれいで写真をとったら思ったより小さい印象を受ける場合があるが、標準レンズの視野角を25度としたら、月は横に並べると50個入る計算になる。<br />
　黒い点を集中してみると、視野一杯に黒い点が覆うようになるが、意識の集中によってこういう感覚はいくらでもずれるらしい。<br />
<br />
　レンズは視野角を決めるが、視野角だけでは距離は不定である。焦点について考えないと、距離が対応しない。<br />
絵を描く上で、視野角が8度(レンズ的には、中～大望遠レンズ)と設定しても大きく二つの見え方がある。<br />
・広角レンズを用いた場合、視野角は50度以上と大きいが、必要な8度だけ切り取る時の見え方。<br />
・望遠レンズを用いた場合、視野角は設定した角度と同程度なので切り取る必要がなく、そのまま未加工での見え方。<br />
　対象間の大きさ・重なりの圧縮、設定する消失点の位置が根本的に異なるようだ。もうちょい考え足りない。<br />
したいことは、例えば170cmの男性と150cmの女性が150メートル離れて道路の脇に突っ立ている時に望遠レンズを用いた時の見え方と、10m離れている時に標準レンズを用いた時の見え方を書き分けろって時に、念頭に置くべきことが出揃っていない感がある。望遠レンズで近くのものはぼやけて見えない･･･がこの辺の見通しが悪い。保留。<br />
<br />
参考文献：『三角形の魔術(たのしい幾何学Ⅰ)』(ペレルマン著、1962年、みすず書房)]]> 
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            <name>ごんきゅう(権窮・GONQ)</name>
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    <id>gokujoanmitu.blog.shinobi.jp://entry/222</id>
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    <published>2011-06-02T11:46:21+09:00</published> 
    <updated>2011-06-02T11:46:21+09:00</updated> 
    <category term="ヒト" label="ヒト" />
    <title>110602</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[<a target="_blank" href="//gokujoanmitu.blog.shinobi.jp/File/0101010.jpg"><img border="0" alt="" src="//gokujoanmitu.blog.shinobi.jp/Img/1306982745/" /></a><br />
<br />
　&quot;アイライン&quot;(=水平線、地平線、カメラの高さ)と&quot;奥行きの圧縮&quot;(=重畳、重複)を最初に設定することで、初めて線を正しく引くことが出来る&hellip;もっと言えば、線を引く許可が下りる&hellip;そんな感じ。その二つを設定せずして筆を走らせることは本来はできない。ただ、普通は感性とか慣れとか、そういうものに頼り曖昧なままでもそれなりに見えるように描けるのだが&hellip;、機械じみた迷いのない精密高速描画は不可能だろう。&quot;奥行きの圧縮&quot;というのは、モノの重なりのことである。&quot;大きさの圧縮&quot;と&quot;奥行きの圧縮&quot;は反比例的関係になる。望遠レンズでは、奥行きの圧縮が強く、大きさの圧縮が弱い。広角レンズでは、奥行きの圧縮が弱く、大きさの圧縮が強い。奥行きの圧縮が弱いほど、対象の立体感を生じるような描き方ができないといけない&hellip;つまり、構造を知れということだ。構造を正しく知るには模写が道具として機能できると便利。<br />
　アイラインが定まれば、ある消失点に収束する線束(つまり消失線)とアイラインとの角度も一定となる。広角レンズから望遠レンズに切り替えても、この消失線とアイラインのなす角度は一定であるはずであり、この角度が変化したら、アイライン(カメラ)の高さが変化したということだ。もちろん、視野角が通常の狭さ(0点透視図法や1点透視図法=弱望遠～望遠レンズでの見え方)においての話である。2点、3点透視図法以上に関してはこの限りではないが、そんな見え方を多用するのは常態ではない。<br />
　0点透視図法といったが、これは画面から遥かにはみ出た所に、消失点がある場合を想定している。望遠レンズで見て、狭い領域を切り取った見え方なのですが、そういう見え方を採用することを&quot;0点近似&quot;と呼びたい。&quot;0点近似&quot;で描く場合、消失線から消失点の位置を推定しようにも平行すぎて不明瞭になりますが、逆に言えば、少々消失点の位置がずれようが無視できるということだ。だから開き直って消失点などは考えない。こういう見え方が、望遠レンズではよくあるし、利用する姿勢であるべきだ。<br />
<br />
　黒澤 明の「赤ひげ」(1965年)では、望遠レンズからの撮影が多い。数十～数百メートル遠方から被写体を拡大して見た時、ある狭い領域を切り取った画面である。その画面内の被写体を含む&quot;背景&quot;は、非常に狭い領域だけが写ることになる。これにより、意図通りに&quot;背景&quot;より&quot;被写体&quot;に注目できるようになる。これは広角カメラ(接近して撮影した時の見え方)との顕著な違いの一つである。この望遠レンズ特有の絵は、意識的に見極めていかなければいけない。可能ならば、いわゆる&quot;奥行きの圧縮&quot;の程度から、カメラと被写体の距離を感覚的に割り出せればしめたものだ。<br />
　アイラインは、カメラの高さ(z)だけを定義するので、残りのある平面内の座標(r,&theta;)はまだ自由である。この座標の内、片方のrが決まれば距離が定まり、この距離に対応した&quot;奥行きの圧縮&quot;となる。<br />
<br />
参考文献<br />
『マンガの教科書シリーズNo.3　リアルなキャラクターを描くためのデッサン講座』 (著者 西澤 晋,2009年)<br />
&rArr;実際の見え方や絵作りに関する、パースとカメラの観点からの考察・知見が載っています。僕の知る限り、そういった絵作りに言及した本は他にないのではないかと思う。]]> 
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            <name>ごんきゅう(権窮・GONQ)</name>
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    <published>2011-05-29T22:10:46+09:00</published> 
    <updated>2011-05-29T22:10:46+09:00</updated> 
    <category term="未選択" label="未選択" />
    <title>110529</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[<a target="_blank" href="//gokujoanmitu.blog.shinobi.jp/File/ba1395db.jpg"><img border="0" alt="" src="//gokujoanmitu.blog.shinobi.jp/Img/1306673793/" /></a><br />
<br />
　造型用に作って放置していたブログ｢天変綱目｣の更新をしました。こちらは当初の目的を変更して、映画の紹介をしていく予定です。映画の解説では、&quot;正しい&quot;ことなんて述べようとする気はさらさらないし、できない。反感を買おうとも自分が思ったことを偏見交えて書くだけ・・・それしか、できる道理がないだろう。目的は正しい評価をすることなんかじゃなく、構図や演出などの&quot;引き出し&quot;を豊かにするためです。この&quot;引き出し&quot;を作る作業は、年齢を経てもやり尽きることはないだろうな。誰よりも美しく整備したい。<br />
　僕にとっては、引き出しを作るっていうのは単に自分の力を&quot;外部&quot;から流入させるという意味以外に、優れた過去ものを、未来に&quot;引き継ぐ&quot;という観点からも望ましいものと受け取っている。その時代、その時代、常にそうだったように現代も優れた過去のものを知らずして頭ごなしに｢つまらない｣と置き去りにし、特筆した裏付けも無く自分の内部の可能性にのみ注力しようとする。そういう人間には最もなってはいけないと思うし、そういう人間の生き方に対して私は憎む傾向すらある。こういう点に憎悪を覚えるようになれてよかったと思う。<br />
<br />
　今までは、絵に関して&quot;内部&quot;の情報のみから構築できるように尽力してきたが、これからは&quot;外部&quot;の引き出しを整備する。目的に適った&quot;外部&quot;の優れた情報が、一体どこにあったのかを要領よく引き出せるようになりたい。そういった状態を可能にならしめる練習方法を習慣化できればと思う。&quot;外部&quot;の優れた情報を探さなくてはいけない。<br />
<br />
　映画を見てその構成を考えることは、絵を道具と化するには良い段階だと感じる。絵は描けて当然であり、次の段階、つまり、どう見せるか、どのように展開するかに焦点を移す。とはいっても、実写ですので、着物や髪型などの知らない情報の模写もせざるをえなくなるので画力も鍛えられる。以前は、マンガの模写でもいいと思っていたが、どんな偉大な漫画家が描いた絵であっても、そういうものは彼らが&quot;自然&quot;から得た情報を彼らなりの優れた方法で劣化させた産物に過ぎない&hellip;その程度でしかないと知らなければいけない&hellip;妙な幻想は捨てろ。そんな劣化物をいくら見ても、それ以上に目指すべき自然の多様性・精緻に近づくことは出来ない。真似るなら自然からであり、自然から学んで自分なりの劣化表現を示したい。]]> 
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            <name>ごんきゅう(権窮・GONQ)</name>
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    <id>gokujoanmitu.blog.shinobi.jp://entry/220</id>
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    <published>2011-05-15T03:00:30+09:00</published> 
    <updated>2011-05-15T03:00:30+09:00</updated> 
    <category term="デッサン" label="デッサン" />
    <title>110515</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[<a target="_blank" href="//gokujoanmitu.blog.shinobi.jp/File/09876.jpg"><img border="0" alt="" src="//gokujoanmitu.blog.shinobi.jp/Img/1305396003/" /></a><br />
　古典力学的には粒子の持つ全エネルギーは、運動エネルギーと位置エネルギーの和である。この見方で人間の成長を考えると、位置エネルギーを意識的に高めようとすることが重要である。おそらく、誰かが&quot;努力している&quot;という場合、その多くは運動エネルギーに関してである。<br />
　位置エネルギーとは、環境・境遇が無理やりにでも私どもから引き出したエネルギーである。だから、位置エネルギーを制御するとは、纏う環境(場)を意識的に制御するということになるのだろう。しかし、環境を変化させれば大抵初めはうまく適応できないため、弱い立場ならではの不安と不快な思いを改めて味わうことになる。だから、運動エネルギーのみに注力することで、ますます十分に適応できるようになる現在の環境の中に居り続けることで、最強を気取りつつ、こんなものでは私の心は満ち足りないと周囲に不満を洩らすようになる。<br />
　海水魚を淡水にぶち込むようなもの、淡水魚を陸に上げる様なものなので、確かに慣れるまでは不愉快である。どの程度の&quot;不愉快さ&quot;かといえば、程度を誤れば死んでしまうくらいである。毒の盛り方、つまり、場の制御は慎重に、大胆にするのが良い。<br />
　心理学での幸福の定義は、自分が今いる環境に自分が適応できていることを実感している状態・・・だとされる。だとすれば、進化・成長とはあえて不幸になる道を選ぶこととも言えそうだ。<br />
<br />
　最近は、小津安二郎の「晩春（1949年）」を見る機会がありました。構図を考える良い機会になります。ひとつひとつのカットを見ていくと、画面上での人物の配置がなぜこのようにしたのかを考えてしまいます。明確な答えは見つかりませんが、そのささいな変化が確かに見る人の印象を変えるのだということはわかる。その配置と印象の相関関係を炙りだして（パターン化する）、小津らしさというものを浮き彫りにしていきたい。]]> 
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    <id>gokujoanmitu.blog.shinobi.jp://entry/219</id>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="https://gokujoanmitu.blog.shinobi.jp/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/110430" />
    <published>2011-04-30T02:23:43+09:00</published> 
    <updated>2011-04-30T02:23:43+09:00</updated> 
    <category term="未選択" label="未選択" />
    <title>110430</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[<a target="_blank" href="//gokujoanmitu.blog.shinobi.jp/File/01000.jpg"><img border="0" alt="" src="//gokujoanmitu.blog.shinobi.jp/Img/1304097761/" /></a><br />
　デューラーは「大運命神ネメシス」という作品を残している。その絵のネメシスはガラス玉の上に乗り、バランス（権衡）を支配する意味合いが込められたのでしょうか。手には測量で用いる道具なのでしょうか、よくわかりません。運命と権衡（もしくは統計）が関連してるのは面白い。一見、デタラメに見える振る舞いも統計処理すれば、秩序のある統計モデルに従っている場合がある。<br />
　光子や電子の2スリット実験では、そうした量子を1個ずつ飛ばしても2つのスリットと干渉を引き起こす。電子1個のみの結果ではデタラメでスクリーンのどこに到着するか全く予測不能であるが、1000回、10000回と電子を1個1個飛ばしていくと、干渉模様を初めて認識できる。この結果、電子の波動性を&quot;間接的・推論的・統計的&quot;に認識でき、電子を&quot;波&quot;と考える&quot;仮定&quot;も妥当だと考えたのである（水の波紋は見たことがあるが、電子の波紋なんて誰も直接見た人はいない）。ただ、この波は電子1個の因果律について何も語る能力をそもそも有していないことは&quot;仮定&quot;の導入工程・動機を鑑みますと当然だといえる。その程度の&quot;仮定&quot;でしかなかったのに、その&quot;仮定&quot;を忘れてはいけない。運命・権衡の女神には、このような自然現象を擬人化した概念だと感じる。統計を支配する力がある。マクロの現象でも統計的挙動をする現象はいくらでもありますが、&quot;べき乗則&quot;はダイナミックな統計作用と感じる。全体として&quot;べき乗則&quot;に従うということは統計的に調べると認知できるが、個別の現象の規模・場所・時間の予測は全くできない。人間は大きな影響を与える位に連鎖反応が続いた事象に限って何かが起こったという認識をするが、そうした注目に値する事象が1回起こるためには、その背景として、人間にとって些細で無価値に近い事象が1000回、10000回、100000回と起こっている事実があるのである。卑近な例を挙げると、町で好きな人たった一人に出会うには、どうでもいいと思える2000人程度の人間と相互作用することなく通り過ぎているようなものである。人間が注目できる、正確には、認知できる事象は、電子1個の因果律のように全く予測できないということは多い。個に執着する性質のある人間にとって&quot;統計&quot;というのは無慈悲に感じる。<br />
　彼女が愛し育みますのは、特定の一個人ではなく、全体としての生命・進化である。だから、特定の個人を&quot;間引く&quot;ような不公平な側面はいくらでもありうる。僕らが、ミカンの樹木を育てる際に、余分な枝を切り落とす適切な行為に似ている。彼女が束縛するのは集団の性質である。ミカンの枝一つ一つではない。人間は彼女の統御する統計モデルから脱することはできない。統計(=権衡)と運命というのは一見異なるようで、深く関連しているのだと感心する。運命というと、何もかも予め定められており古典物理の思想である&quot;決定論&quot;と考えるのが通常である。しかし、彼女が&quot;権衡の女神&quot;と呼ばれることを考えると確率統計の概念と結び付けたくなるのである。統計論的に運命を支配し、個人に全く執着していないというのは自己同一性のない量子と同じで、現代的な解釈だなぁと思いました。以上のような解釈は、かなり僕自身の歪んだ思い込みが入っているとも思いますが。権衡の女神は、色々な矛盾を相補的に取り込める器のようだ。<br />
<br />
　ネメシスというのは、恐竜を滅ぼした流星群を地球に導いたどっかの（仮説上の?）恒星の名前にもなっています。最近、考えられていることは、果たして今まで滅びだ生命全体にとって、隕石のような天変地異によって死んだのは全体の何パーセントかということである。どうやら、そうした天変地異によって滅んだのは、全体から見てかなり少ないのではないか･･･という見解がある。隕石などのような必殺技を使用しなくても、&quot;些細な変化&quot;で全滅にまで追い込まれた種が大半なのではないかという考えです。<br />
　地球の平均温度が一時的に0.1度上昇したとか、その程度の変化も十分に種を滅ぼす可能性がある。例えば、地球上に1000000種程度生きているとして、その&quot;些細な変化&quot;によって一種くらいは絶滅しても何ら不思議ではない･･･統計的には。その一種は色々な異なる種と食物連鎖のように連関しているだろう。だから、&quot;些細な変化&quot;を1000回行えば、1度くらいは生命全体を根絶やしにするような連鎖反応を引き起こしうる要となっている一種（特異点）を滅ぼしてしまう場合があるのではないか･･･ということです。だとすれば、十分な長い観測時間を設定した場合、人間が何かしらの悪事を全く働かずに行儀よく過ごしていたとしても、ごく自然に絶滅という現象が必然的に何回かは起きなければいけないことが推測される。もちろん、人間の生命活動が絶滅へと至る連鎖反応の乗数を高めているということは言うまでもありませんが。絶滅には必ずしも、隕石衝突などの激変は必要ないという考えは興味深い。カオスですね。そういう風な運命の定まり方とネメシスとを結び付けるには、&quot;統計&quot;という概念は必要になる。<br />
<br />
被写体との距離感に関して思うところ&darr;<br />
　見たものを正しく描くには、被写体に対してカメラを固定する必要があることは平凡な発想であり、十分受け入れられるだろう。絵描きが何かを資料なしで描こうとする場合にも空想上のカメラを固定するのだろうが、一つの絵を描き終わるまでの一部始終において、その空想上のカメラを常に固定することが果たして私にはできているだろうか･･･と考えると決してできていないと感じる。人の胴体は5メートル遠くからの見え方で描いているのに、頭部は30cmの距離からの見え方で描いている場合があるかもしれない。そういう距離感の調整を意識的に操作して行っているのならば当然よろしいのですが、大抵は自分が描きやすく、慣れているという理由で無意識に距離を変動させて描いている場合が多いのではないだろうか。この点の調整力をつけるにはどういった指標が必要なのかが問題です。当然、見え方を学ぶ上で模写は必要であろうし、学ぶ点はまだまだ無数にあるから、模写で人生終わるんじゃなかろうか･･･それでいいのかもしれん。北斎は晩年になってようやく少しばかり描けるようになったとか言ってた気がする。模写を行えば、距離に関してはほぼ一定になる。模写でない場合、固定カメラからの距離感を無視して、自分の数少ない慣れしたしんだ距離感を一点一点に適用しようとする妙で貧相な欲求を消してしまいたい。こういうのは自由ではなく、確かに自由感に過ぎないのだろう。自分が制御しきれない面が多々ある絵に対して、偶然出来栄えが良い絵だからといって、それを自分の能力だとは思うのは間違っている。<br />
<br />
　あと極端に近接して人を描く場合があるだろうが、その場合、普通の人の視野では&quot;足の先端から頭長&quot;まで全て完全に一望することは不可能です。しかし、そういう束縛を無視すればこう見えるだろう･･･として描いた絵に対して僕らは果たしてそれが正しいとか良く見えるとかを判断できる感覚をそもそも培っているのかと考えると持っていないようなきがする。つまり、そういう風に見えるかもしれないが、通常そういう風に見る機会は皆無に近いから違和感があるとなる。そういう絵を描けることは望ましいのだろうが、違和感がないように視野を切り取る点に何かしらの方法論を展開するほうがよいのではないかと思うようになった。それを構図というのでしょうが。]]> 
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            <name>ごんきゅう(権窮・GONQ)</name>
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    <published>2011-04-20T23:42:34+09:00</published> 
    <updated>2011-04-20T23:42:34+09:00</updated> 
    <category term="デッサン" label="デッサン" />
    <title>110420_</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[<a target="_blank" href="//gokujoanmitu.blog.shinobi.jp/File/6eb898ed.jpg"><img border="0" alt="" src="//gokujoanmitu.blog.shinobi.jp/Img/1303310515/" /></a><br />
最近は、脳科学に夢中ですね。<br />
　焦点はやはり、&quot;自由意志の有無&quot;ですね。結論から言えば、&quot;自由意志&quot;はない。あるのは、&quot;自由否定&quot;らしい。確かに、殺意が湧くのは僕の意志に関係なく生じるけど、それを行動に移すかどうかを選択する猶予は僕にありますね。もちろん、その猶予を忘れるくらいに憤慨したりすれば、&quot;魔がさした&quot;という事態になるのでしょう。脳の神経回路の&quot;ゆらぎ&quot;が意思の端緒となるので、つまり、何かしようという思考がいつどこで生じるかの予測は、短期的にはまったく融通のきく類ではない乱雑な自然現象なのかと思う。<br />
　僕は「人間とは何か(著マーク・トウェイン)」に触れ、当時の決定論的風潮は嫌いじゃないので、物理法則に縛られないと感じる人間の自由意志を神聖視・特別扱いせず、水面の波紋が広がる一連の無我の現象と同じ感覚で捉えたいと思ってきました。仏教では&quot;諸法無我&quot;というのでしょうか。夏目漱石の晩年の思想&quot;則天去私&quot;では、もっと修身的意味合いが強いが、そこにはやはり、自分というものを消し去り、天の普遍法則に従えと薦めてるようだ。<br />
　人間や動物も含め例外なく味気なく通底している物理現象(諸法)に、人間は世界を彩るように好き勝手に解釈し、その解釈が正しいと信じて疑わない。解釈するためには指標となる&quot;モノサシ&quot;があるわけで、その&quot;モノサシ&quot;は普通に生きているだけでは大して精密かつ柔軟になるはずがないのであるが、どういうわけかその&quot;狂ったモノサシ&quot;から得られる出力結果に疑問を抱くことは本能に抗うかのように許し難く、場合よっては実質以上の自信を持ってしまう。&quot;権理&quot;は&quot;権利&quot;に変化してしまったが、&quot;理を権る力&quot;を養うというのは大変な努力が必要だ。&quot;権理&quot;の方が個人的には好ましい。<br />
　人間の&quot;自由意志&quot;の生起の実態は、物理的な神経内の電気的ゆらぎを端緒とし、ニューロンの層が幾重にも重なって、いずれ秩序だった、方向性のある思考が形成される。膨大な量は組み合わせ次第で、時として質を一変させる。故 宮城音弥氏は、自由と感じるのは幻想であり、私たちは本当の自由ではなく、行動に「自由感」を伴っているにすぎないと記していた。心理学的な実験も多々行われているようだが、脳は自分の言動に対して不本意・誤りだったとしても、自分が自分の意思でそれを望んで行ったのだ・・・と後出し的に、記憶・感情を修正し、内部矛盾が起こらないように補正する。これは、脳の特性らしい。ささいな無意識的な虚偽は日常茶飯事であり、むしろ自然な働きともいえる。奴隷が二人いて、その奴隷互いには自分を繋ぐ鎖の立派さで優劣を競い合うようになるという･･･これも自分を安定に保つために必要な虚偽の一つではないか。<br />
　そうした自然に脳が求める虚偽を真っ向から否定するようですが、&quot;非才をかこつな&quot;っていい表現ですね。今まで僕が複雑にこねくり回して表現していたことが、スパッと言い表された感覚。こういうことを既に言っている人がいるんだよね。&quot;非才をかこつな&quot;は、いくら努力しても自分のように才能のない人間には限界があると考えている人に対して、非才を言い訳にして努力を怠るなってことです。ニーチェの超人思想も同様だろう。神がある限り、人間は生きることの困難さを神に丸投げしてしまう。どんなに生きづらい人生であっても、外部の絶対者に頼ることなく、自らの確立した意思でもって行動する。安易な逃げ道は須らく封鎖すべきであり、全ての行いの結果を自身に帰責させられるように漏れなく因果関係を掌握する。それが超人だという。時代的には1900年プランクの量子仮説以前の古典物理決定論全盛期に生きた人だから、やはり因果関係は決定論的に解釈できるという思想はどぎつく定礎となっているように感じる。超人は皆それぞれ脳内に&quot;ラプラスの悪魔&quot;を飼えってことかもしれない。<br />
<br />
　超人思想は心理的な拷問器具のようなもので、絶えられる資質のある人には良薬だろうが、大抵は感情的に嫌われてしまうのが普通だろう。超人思想のモノサシで他者の行いを喝破することは、心理的だとはいえ、耐える覚悟のない他者に拷問器具を強制装着させるに等しく、これは超人同士でなければ成り立たない行為だと思われる。超人思想は男性的な発想だ。<br />
<br />
幸田露伴の「努力論」より一節。<br />
　「天才という言葉は、ややもすると努力に拠らずして得たる智識才能を指差すが如く解釈されているのが、世俗の常になっている。が、それは皮相の見たるをまぬかれない。いわゆる天才なるものは、その系統上における先人の努力の堆積がしからめした結果と見るのが至当である。」<br />
　&quot;至当である&quot;って&quot;極めて当然であり、適切であること&quot;っていう意味だけど、使う言葉にしても洗練されている感がある。達する見解は皆同じなようだ。]]> 
    </content>
    <author>
            <name>ごんきゅう(権窮・GONQ)</name>
        </author>
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    <id>gokujoanmitu.blog.shinobi.jp://entry/217</id>
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    <published>2011-04-07T01:33:35+09:00</published> 
    <updated>2011-04-07T01:33:35+09:00</updated> 
    <category term="デッサン" label="デッサン" />
    <title>110407</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[<a target="_blank" href="//gokujoanmitu.blog.shinobi.jp/File/01273.jpg"><img border="0" alt="" src="//gokujoanmitu.blog.shinobi.jp/Img/1302106663/" /></a><br />
<div id="diary_body" class="FANCYURL_EMBED">人間の建設(岡 潔、小林秀雄)より。 <br />
<br />
　紹介したい部分は広い範囲に渡っています。対話形式ということもあり、やや長い前置きを経た上で要点が散在しているので、部分的な抄録では文脈の理解が難しいと思います。理解し難いと思いますが以下、若干の注釈をした上で紹介します。&nbsp;<br />
<br />
（本文、省略させていただきます!!） <br />
<br />
ここで僕一人ではなかなか勇気と確信がなくて主張できないが、可能ならば言い切ってやりたい発言がありました。一部、列挙すると、<br />
<br />
岡 <br />
「今の芸術家は嫌な絵を押し切って描いて、他の人には描けないといって威張っている。」 <br />
&rarr;個性や独創性は確かに大事だが、評価に値しない(普遍性がなく、共感を生まない)あぶくのような個性を主張しているということだろう。<br />
<br />
小林 <br />
「今の絵描きは自分を主張して、物を描くことをしないから、それが不愉快なんだな。物を描かなくなって、自分の考えたこととか自分の勝手な夢を描くようになった。」 <br />
&rarr;自分の想像だけでなく、実際にモノを目で見てデッサンしろってことだろう。大衆が思っている以上に、人間個人が独自に思い描く内容の99%は、自然が表現するものよりも相当つまらないものだという認識が自分にはあるし、そのスタンスで今のところ文句はない。<br />
<br />
岡<br />
「この松の枝ぶりが良いとかいけないとかいう見方は、思い上がったことなのです。」 <br />
&rarr;僕が望む絵描きは、被写体がどのようなものでも絵になり、被写体を選り好みすることはない。上文では、選り好みしなければ絵にならないという絵描きの態度は、思い上がったことだと言っています。選り好みしなければならないのは、、被写体に責任があるのではなく、絵描き自身の未熟さに原因があるということだろう。<br />
　「絵になる=それらしく見える」のであり、「美」とはまた違ったニュアンスなのだと思います。<br />
以上の3つです。 <br />
<br />
　僕の立場からすれば、絵を描くときに悩むことなんてなくていいんです。目の前の被写体をよく見てありのままに描けばいいのです。描けないもの(知らないもの)を無理やり描こうとするから、想定外の現実とは掛け離れたものができあがる。 <br />
　僕は知らないことを極力描こうとはしない。なぜなら、描けなくて当然だからだ。ここで悩む人がいるが、描けないことは必然的な帰結ですので、知らないものを描けないと悩むことはないのです。むしろ、描けないことは、知っていないということになります。<br />
<br />
　僕に描ける絵は、描けるレベルで知っている範囲のものであるか、もしくは、知らないが完全に模写を行う場合だけである。全く新しいものを描けるように見える場合があるが、それは既知情報の複雑な組み合わせで必ず説明されるべきであり、鑑賞者はその情報の組み合わせを容易に解体できないから「無からの創造」という安易な解釈に、自分の及ばぬ知性の慰めを行う。「組み合わせの妙」とは、それだけ多彩深奥だと思われる。なお、自分はルーベンスと同様に、引いた線に対する起源や意図には説明責任を持つべきという気構えである。だから、人の意図を極力消したり、偶然性を全面的に利用する絵描き(そういうのを認める部分もあるが、説明責任まで放棄されると困る)や、小我に捕らわれた絵描きの意見とは相性が悪いだろう。しかし、あくまで僕の信念に沿わないという個人的見解に過ぎず、世間一般には認められるべきだろうと思うし、そういうやり方でないと生まれないものもあるでしょうね。<br />
<br />
　新しいものを描ける様になる為に、模写は知識の入力の役割を果たす。絵を文章と例えるならば、模写の精度が優れることは、単語の意味を辞書できちんと毎回正確に引くことに対応する。模写ができなければ、意味のある文章は作ることはできない。「模写の意義」とはここにあると確信を持ったのは、絵を描き始めて3～4年目だった。ちなみに、この上達の工程は絵に限ったことではないと思う。上達の基本構造だと敷衍したい。<br />
<br />
　知人の画家によれば、模写は出来て当たり前であり、半年やれば誰でもできると言っていた。この時、自分の唱える方針が、あまりに当たり前に受け入れられたことにやや驚き、自信が持てた。一方で、模写ができない人が多い（出来ないといっても程度は人によって違いますが）。<br />
　模写をしない人はそもそもできる能力がないのではなく、模写の意義を軽視しているか、全く知らない人だと思う。模写の意義を知り、なお模写の技術を高めようとしないならば、それは僕とは求める終着駅が違うのだろう。そうならば、お互い比べあうということに意味がないのかもしれない。「飢える」対象が自分とは違うのだと割り切るしかない。<br />
<br />
　僕が絵を描くときに悩むポイントは、模写で得た正しい情報をどのように秩序立てるかなのであり、何度も消したり描いたりして、その場限りの、あてずっぽうに、視覚的に、正しい線を探そうとすることではない。ただし、あてずっぽうに何度も消したり描いたりする段階が成長の段階で一度もないというこはないだろう。まずはそうやって森を見ずに、一枚の葉っぱだけに固執するような段階はあるのだと思います。そうやって、いずれ、顔という一つの木、腕という一つの木をストレートに描け始め、ひとつひとつの木をどのように描けるようになったかを反省すれば、おのずと自分の方法論が確立されてくるのだなと思う。<br />
　ちなみに、この情報の秩序化(=有機的な結びつき、系統化)という過程が、文章で例えたところの文法に対応する。この文法を作る作業にこそ相当考えなければならない。私の思う絵描きの独創性とは、描いた結果としての絵(絵柄)にあるのではなく、絵を描く文法をどのような知識を用いて、いかに構築したかに掛かっていると思う。僕は今このことを思いつきで言ったけど、実際、自分の執着する部分(自分が飢える対象)はこの説明通りだろう。薄々気がついていたことだが、このブログで考えを文章化することで自然と湧き出た結論だ。この結論の導出も、おそらく「組み合わせの妙」だろう。絵描きの独創性と一般化して言ってしまったが、正確には自分は成長の現段階で、最もこの点に飢えを感じると言った方がよいだろう。<br />
　デューラーの「絵画論」では、描く方法にどれだけ彼が思索・飢餓していたか伺える。ああいうのを知れば、彼が求めていた価値基準というものは結果としての絵だけを見ても読み取れるのは難しいのだと思う。仮に読み取れるならば、その人は既に素人ではなく熟練者である。デューラーからすれば、結果としての絵自体よりも、形がなく抽象的な方法を第一目的で求めていたのだと感じる。結果としての絵は、より高尚な目的のための一つの実験結果に過ぎないといえるのかもしれません。より高尚な目的には、小我に捕らわれない普遍性があった。<br />
　デューラーの文章には、当時、少数の本物といえる巨匠がそれぞれ持っていた方法論を彼らが秘していたことや、ギリシャ時代・イスラーム時代の巨匠が書き記した有り難い著書が「知識を愛さず憎む人間」によって失われてしまったことに、若干の苛立ちを感じさせることが多々あるのである。彼の意見には非常に共感できますし、そういった意志を僕は引き継ぎたいと思うのである。スタドラ的に言えば、やりたいこととやるべきことが一致したのである。<br />
<br />
　英語の文法が厳密に定まっているように、絵の描き方にしても曖昧でいいわけがないのです。市販されている絵の教本には、どんな構図・ポーズであっても、同じ文法に沿って常に書くべきだ、そういう練習をせよと明示されていた。　<br />
　世の中の絵描きには、絵の文法が未発達の人間と絵の文法を持っている人間とがあるだろう。自分なりの文法(方法論)の確立の有無が、絵描きの実力(=問題意識)を推し量る重要な要素であり、プロとアマチュアの分水嶺だろう。　<br />
　プロとはどんな要求に対しても、ある一定以上のクオリティを機械的に、時間に比例して生み出せる方法論を持っている人間のことだと思う。そういう方法論を成熟させずに、〆切などを守れる安定した実力は実現しないと思う。<br />
<br />
　自分の行ってきた方法が、自分の予定通りかといえば、全然そうではなく、がむしゃらにやっていたら何となく辿り着いていたといった感じだ。今になって成長の軌跡を分かりやすく話そうとしても、一つ一つの概念（圧縮化、模写の意義など）の説明はそこそこできるだろうが、どのように組み合わされて発展してきたかを時間軸に沿って記述することは難しい。いずれも並列していたような気がする。つまり、自分の境地を第三者に実現させることは難しそうだ。何より僕の成長の仕方は、万人が共感するには癖がある僕特有の「飢え」が選び取ってきた道なのだから、仮説的には結論をシミュレートできても、僕と同様の「飢え」がない人からすれば、ひどく苦痛な道だと感じ、作業を受付けないでしょう。逆に、僕には乏しい「飢え」が、ある人には狂おしいほどあって、その人特有の成長を促すのかもしれません。それは僕には真似できない。真似できないというか、真似しようとする意欲がわかない。僕にできることは僕に似ている少数の方々のために、僕というある種の飢え・癖のある試験体が、どのような刺激を求め、どのような応答をしたのかを明示して、大勢のなかの一例となることが精一杯なのかもしれない。<br />
　提示しようとする方法論は、もちろん共感・普遍性を兼ね備えていることを望むが、その方法論を指示通りに完遂可能かどうかは各自の「飢え」によるのである。つまり、受け入れればできるが、受け入れないからからできない･･･そういう方法論となるでしょう。「飢え」は、生来的な要因・環境・境遇などそれこそ全く同じ条件を与えられた人はこの世に二つといません。だから、「飢え」の種類に良い悪いはないし、「飢え」は各自異なったほうがきっと面白い。<br />
　上達の秘訣は、自分の「飢え」を正しく判断して（に素直になり）、満たすように習練することになる。私が確立したい方法論は、方法論を受付けるか受付けないかを左右する「飢え」にまで配慮されてはいないと思う。「飢え」まで作るとなると、それはその人の性格を根本から変えるという位大変な作業だろう。そういうのは、小中高学校の教諭など教育者が長い時間、手間かけてする仕事だろうね。だから、僕と同じ「飢え」を持ちえた人にA&rarr;Bという人の主観によらない運命論的な方法を提示できればよいのかなぁと思う。僕にしても、ゲーテ、デューラーなど、自分と親和しやすいと思う人の考えを受け継いでいるわけであり、そのような人生の師匠、自分が目指したいと思える人をまず探せっというような、既に多くの人が使い古した人生論的教訓となってしまう。<br />
　極論かもしれないが面白い意見があります。「今生きている人間から習うことは一つもない、死んだ人間からのみ習え」という意見です。人は死んでからようやく、歴史から忘れさられていい些細な存在か、それとも、忘れてはいけない伝えていくべき存在かの正当な判断が客観的に下されます。だから、今生きている多くの人間は正当に評価できない主観に捕らわれたノイズの多い実験データなのであり、そこから本物のみの抽出は難しい、宝くじのようなものだ。しかし、時間の風化に晒された歴史から学ぶことは、ノイズの少ない実験データであり、本質のみを享受しやすいというのである。多くの年老いた成功者は、自伝や自分の考えを述べて書籍にすれば売れる世の中のようだが、多くの場合、既に語り尽くされた金言が自分の人生にも当てはまり、良い一例となりましたよっという報告書である。今の成功者が「論語」から学んだというのなら、次の世代の人も「論語」から学べばよいのであるが、今の社会は「論語」よりも「今生きている成功者の論語の劣化版」が手に入りやすい環境である。本が売れないというだけで「真理もあるが、生きている故に嘘や虚栄も含むつまらない新書」に「正統的古典」が排斥される現状では、不幸な思考を持たざるを得ない人間の増加に少なからず寄与している。成功者が小我に捕らわれて闇雲に自分を神格化して振舞えば、まだ力を得ていない若い人間は力強く成長できなくなると思うのです。<br />
　「悪貨は良貨を駆逐する」に習えば、「悪書は良書を駆逐する」と言える。なぜ、悪貨や悪書が蔓延するのだろう。自分に甘く、駄目な自分を満足させてくれるから･･･だろうか。危機感・使命感・目的意識・静かな怒りを息吹かずに生きている人間が多く、当事者意識が薄れているから･･･だろうか。既に今は優劣を正当に判断する能力を失いはじめている可能性もある。本来、悪書か良書かを判断する際にお金は関係ないのだが、そこにお金が勘定されている。売れる見込みがなければ作れないことと、人間は過去よりも今に興味がある（実際、普通の生活では過去は間接的にしか見えない）という事実は、「何が真に価値のあるものかを判断する指標」を人から奪うには十分な条件である。一方、科学は普遍性・検証が大事なので、過去も現在も未来も比較的関係ないと思われる。だから、今、何かしらかの教本や評論書が販売されても、科学的裏付け、歴史的考察まで言及していれば、それはいつの時代にも通用するので価値があると言えるのである。言い換えると、小我から離れた内容ほど優れており、通用する、目指すべき境地なのかもしれません。『人間の建設』では、「自我が強くなければ個性は出せない、個性の働きを持たなければ芸術品はつくれない、と考えて色々やっていることは、今、日本も世界もそうです。いい絵がだんだん描けなくなっている原因の一つと思います。」と書かれており、小我に捕らわれることを勧めてはいない。今まで、私は「自分を捨てろ」と言ってきたが、また一つ、その文献的論拠が得られたことは喜ばしい。この確信がとにかく欲しくて本を読む。<br />
<br />
　僕は最近、「才能」という表現の代わりに、「飢え」という表現を是非使いたいと思うようになった。「飢え」という表現は、三島由紀夫や北野武が使っていたからだろうけど、「才能がない」のと「飢えがない」というのでは、後者の方が僕の言いたいことがより正しく反映されていると思ったのです。そもそも「才能」って何だよって思っていたし。<br />
　「飢え」って言うと、生来的な要因以外に、自分では中々自由の効かない環境・境遇にも依存しており、時価的傾向を伴うことが良いのです。「飢え」は、満たされる場合もあれば、満たされない場合もあり、変化あるものだ。<br />
　「才能」は、生まれた瞬間に価値が固定されている感じなので、これはやはり現実の様相とは異なる。環境的要素を重要視している自分としては「才能」より「飢え」の方が好感が持てるのです。 <br />
　<br />
　「才能」という言葉は、おそらく、問題にしている分野で「才能がない人達」が意思疎通のために考え出したのではないかと思います（十分な論拠は全くございませんが･･･）。才能のある人は、才能という表現を使う前に、もっと親切に分かり易い表現を使い、伝えようと努力するし、できるのだと思うのです。しかし、実際、その分野の知見に乏しい人に十分に伝えることは難しいだろう。才能のある人の、可能な限り噛み砕いた親切な説明でも伝わらなかった人が、なんとかその偉業を第三者に説明しようとしたら、「才能」とかいった曖昧な表現が便利なのだと思います。</div>]]> 
    </content>
    <author>
            <name>ごんきゅう(権窮・GONQ)</name>
        </author>
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    <id>gokujoanmitu.blog.shinobi.jp://entry/216</id>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="https://gokujoanmitu.blog.shinobi.jp/%E6%A7%8B%E5%9B%B3/110217" />
    <published>2011-02-17T21:15:50+09:00</published> 
    <updated>2011-02-17T21:15:50+09:00</updated> 
    <category term="構図" label="構図" />
    <title>110217</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[<a target="_blank" href="//gokujoanmitu.blog.shinobi.jp/File/004040.jpg"><img border="0" alt="" src="//gokujoanmitu.blog.shinobi.jp/Img/1297944923/" /></a><br />
　<br />
　以前言ってた、直線の角度とカメラの位置の関係を示す。<br />
直線は奥に行くほど、消失点(消点)に収束していく。錯視に当たるかどうか不明だが、見た感覚よりは角度が小さい場合が多い。角度が60度かなと思って、手を水平にかざしてみると、あれっ!?45度だってことも多い。実際に、aとxを確認すると、確かに同じ程度の距離だったりする。<br />
　この部分に関しては感性よりも知性を優先したほうが今の段階ではいいのかもしれません。理解した上で感性に任せると、理性が補完するようなりそういう状態がよい。<br />
　わざわざ描いて感性で捉えなくても、頭の中で角度とカメラの三次元的位置の対応が可能となる点が便利。<br />
　僕が、淡々と無味乾燥なレシピ通りに描いた絵、つまり、視聴者にこういう風に受け取って欲しいなんて思索を働かすことがなかったとしても、描いた本人である僕以上に見る人が『想像力を誘発させる(感応させる)』ような技法(レシピ)があれば、それは絵を操作しているといえるのかもしれません。もちろん、全面的にその方法が最高に素晴らしく、目指すべきものと主張する気はありません。<br />
<br />
　あと、余りにも自分に接近した部分の直線はもちろん歪みます。ただ、角度に関して、望遠と近接の区別は常識的な範囲(普段、自然に見える程度)でならば必要ないようだ。望遠と近接は圧縮率に依存する。<br />
<br />
　図書館で、射影幾何学の本借りた。複比が説明されてた。<br />
<br />
110224<br />
『複比と消失線に基づく車載単眼障害物検出(画像認識、コンピュータビジョン)』(2004年)<br />
っていう論文があった。発想は今まで考えていたのと類似しているから一見の価値がありそう。<br />
圧縮率は、反比例、Y=x^(-1)だと思う。冪(べき)関数Y=a^xかと思ったが、冪関数では容易にフィットできない。<br />
単純に、同じ大きさの物体が、2倍離れれば、1/2の大きさに見えるというのがどうやら実験的にも正しい。<br />
圧縮率をY=x^(a)として、aを任意の実数とすれば、圧縮率を制御できる。基本的にはa=-1。<br />
<br />
110225<br />
　圧縮率は、実測値から反比例に確定した。<br />
また、自分の向いた方向の前後2つの消失点を結ぶ、消失線に対して、その収束する比率(圧縮率)の一般式を考える。この時、私の主観を根拠に選択するならば、コーシー分布(ローレンツ関数)の確率密度関数が数理モデルとして有用と感じた。このモデルの当てはめには正当な理屈はない。裾野の減衰も緩やかで見た目が似ていたから使ったというのが本当のところ。<br />
　コーシー分布を試してみると、現実とのフィッティングに微妙な面がある。そもそも反比例を完全には表現できない。裾野とピーク付近のいずれかを犠牲にしてしまう。ただ、一旦、現実の再現とは割り切って、コーシー分布に従う圧縮率を考えるのはありなのかなと思う。でも、その定量性を感覚的に描写しきる自信はないが。<br />
　まずは、肉眼による現実を再現しようと思う。<br />
<br />
　反比例だと、自分の目に非常に接近した時は、関数的には無限大を与える。しかし、実際には、対象が最接近したとき十分に離れていれば有限の長さに見えるはずである。つまり、遠方では反比例の挙動を示すが、近づくにつれ、反比例的挙動が弱まり、最接近した時にはある有限の最大値となる。このことから、消失線の水平線に対する角度の変化を丁寧に調べる必要がある。<br />
　今までは、ある平面上のキャンバスを考えてきたが、自身の眼を中心とする、半径固定の球面キャンバスを内から描くと考えたほうが良いかもしれない。半径をどうするのかという問題もあるけど。平面キャンバスだと描ける範囲が限られるし、周囲の空間の歪みの程度がわかりにくい。<br />
<br />
110226<br />
　反比例xy=a、あるいは、x<sup>2</sup>-y<sup>2</sup>=aが、圧縮率の挙動として先ず思い浮かぶ表現である。<br />
これらは、媒介変数t=i&theta;によって、双曲線関数(sinh, cosh, tanh)として表現される。<br />
三角関数(円関数)的挙動を示す双曲線関数は、オイラーの公式(e<sup>ix</sup>=cos x+i sin x)を通して(マクローリン展開したものを比較してもいい)、冪関数e<sup>x</sup>としても表現できる。]]> 
    </content>
    <author>
            <name>ごんきゅう(権窮・GONQ)</name>
        </author>
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    <id>gokujoanmitu.blog.shinobi.jp://entry/215</id>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="https://gokujoanmitu.blog.shinobi.jp/%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%B3/110215" />
    <published>2011-02-15T22:55:53+09:00</published> 
    <updated>2011-02-15T22:55:53+09:00</updated> 
    <category term="デッサン" label="デッサン" />
    <title>110215</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[<a target="_blank" href="//gokujoanmitu.blog.shinobi.jp/File/00800.jpg"><img border="0" alt="" src="//gokujoanmitu.blog.shinobi.jp/Img/1297778131/" /></a><br />
&darr;ここは、以後洗練させていきます(工事中の日記)。<br />
<br />
「歴史とは何か」（E.H.カー 著、清水幾太郎 訳）より抄録<br />
<br />
　19世紀は大変な事実尊重の時代でありました。『辛い世の中(ディケンズの作品)』の主人公グラドグラインド氏は次のように申しました。「私が欲しいのは事実です。･･････人生で必要なのは事実だけです。」19世紀の歴史家たちは概して彼と同じ意見だったのです。<br />
<br />
　サー・ジョージ・クラークですら、歴史における「事実という堅い芯」と「それを包む疑わしい解釈という果肉」とを自分で対照させているのですが、きっと、果物は果肉の部分の方が堅い芯よりも有難いものだということを忘れているのでしょう。先ず、汝の事実を確実に手に入れよ、次に、無二無三、解釈という流れ動く砂漠に突進せよ―これが歴史における経験的な常識的な学派の最後の言葉であります。<br />
&rarr;歴史における事実と解釈を、果物における芯(種)と果肉にアナラジーしているのは、上手な解釈だと感じた。事実のみでは皆を喜ばせるには弱いが、事実をどう解釈するかで皆は食いつくかどうか決まる。しかし、解釈を生み出す起源は堅固な事実なのであって、解釈から解釈を生み出すことは、いずれかの段階で腐り始め、誰も見向きもしなくなる。<br />
　良い解釈を生むためには、面白い解釈ばかりに気をとられることはできない。無味乾燥かもしれない事実を集め、自分の庭に蒔くことに時間をかける必要があると思われる。歴史と果物のこのアナラジーは、これまで見てきた中でかなり上手い部類に当たる気がする。<br />
<br />
　「正確は義務であって、美徳ではない」というハウスマン(1859-1935、英、古典学者)の言葉を思い出します。正確であるといって歴史家を賞讃するのは、よく乾燥した木材を工事に用いたとか、うまく交ぜたコンクリートを用いたとかいって建築家を賞讃するようなものであります。<br />
<br />
　トルストイは『戦争と平和』の中でアダム・スミスに倣って次のように書きました。「人間は意識的には自分のために生きながら、人類の歴史的な普遍的な目的を達成するための無意識の道具になっている。」<br />
　バターフィールド教授によれば、「歴史的事件というものには、誰一人欲していなかった方向へ歴史のコースを捻じ曲げるような性質がある。」<br />
　ロッジは次のように書いた。「彼は参戦するつもりはない。しかし、事件に押し流されてしまうと思う。」「人間の意図による説明」や行為者自らが語る動機の説明を基礎にして、つまり、行為者がなぜ「彼ら自身の気持ちからして、このような行為をしたのか」を基礎にして歴史を書くことが出来ると考えるのは、一切の事実を無視することです。<br />
&rarr;以下、「歴史は「べき乗則」で動く」（マーク・ブキャナン著、水谷 淳 訳）も踏まえる。<br />
　歴史はどうやら、決定論的思考により説明することはできないらしい（つまり、経験知によって未来を予測する式が得られない）。個人個人の思惑の単なる積み重ね以上の何か不思議な力が働いているというのが皆が思っているところである。統計論的思考であるならば、歴史（革命、戦争、暴落、地震、山火事、巨大隕石衝突、種の絶滅など）の予測不能な出来事は数学的なべき乗則によって表現はできる。ある種の絶滅を保護することは大切であるが、その一方で、これまで歴史では、生命の99.99%は絶滅しているのだ。それも、巨大隕石衝突によって絶滅したのは全体のほんの一部であって、ほとんどの種がそれほど驚くべきことでない原因によって絶滅する可能性を秘めた不安定（臨界状態）な存在なのだ。隕石という仰々しい理由がなければ絶滅は起こらないと思うのはどうやら間違いらしい。<br />
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　べき乗則は、個人の詳細な情報を設定することを必要としない。どんなに個人個人がそれなりの意思で行動したとしても、この法則は堅く守られるようだ。正しいかどうかわからないが、一つ例を挙げる。100人のうち、20人が優秀ならば残りの80人は怠けるようになる。優秀な20人を集めると、その中から怠け者がまたある一定の割合で生じるらしい。この比率を知るためには、個人個人の情報はそれほど厳密に知る必要はない。<br />
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　ガウス分布が、なぜあのような関数として表現され、ピークを上手くフィットできるかを説明できる人はいるだろうか。私も十分できるわけではないが、ガウス分布、べき乗則、フラクタルなどは関連していると感じる。<br />
　天変地異的な大規模な現象を引き起こせる状態を臨界状態と呼び、森を全て焼き尽くた山火事に対して、森林はそのような大火災を引き起こせる臨界状態であり、原子爆弾の原料となるウラン235が炸裂するための最低質量も臨界状態である。そこは、つまり、有機的なネットワーク・連関が緻密に育った状態である。臨界状態では、ある十分に長い時間で考えれば大地震というものは必然的に、誰も気にしない小さな地震と同じ原因でもって起こりうる。<br />
　歴史家は第一次世界大戦の原因を、テロリストによるどこぞの皇子の暗殺だとした。しかし、大戦の規模に関しては、なぜその程度になったのかを説明できていない。場合によっては、もっと小さな規模(ヨーロッパだけとか)で済んでよいはずであるし、歴史家ならば大戦への発展を未然に防ぐ知恵を提案して欲しいものである。べき乗則によれば、世界情勢が大規模な戦争が起き得る臨界状態であったからだと説明される。情報化社会、グローバル化に比例して臨界状態はより敏感となったといえる。互いに相互作用しあうネットワークという構造そのものが、臨界状態を作りうるなら、脳内のニューロンネットワークは、アイディアを生み出す臨界状態に常にあると考えられる。アイディアは苦労して生み出すというよりは、必要十分なネットワークが組まれさえすれば自然にふと湧き出るものだ。苦労したと思っている人も、最後のパーツを偶然手に入れるまで「待つ」ことが苦労したのであって、アイディア・発想そのものは、まるで突然降ってくるようなものだ。これは大地震や株価の大暴落と同じようなシステムであり、小さな出来事が起きるシステムと全く違う特別な原理により引き起こされたものではないと説明される。<br />
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　統計論でいうとことの臨界状態の極限を考えると、決定論はその領域では成立する。爆弾に火をつければ爆発するという決定論的工程を実現しうる爆弾は、極限臨界状態まで組織化されていたといえる。<br />
　統計論の臨界状態とは、確率的に大規模な変化を引き起こす可能性がある状態をいう。<br />
　大地震など僕達の次元(スケール)で注目に値する特異的な変化の原因と、僕達が注目に値しない無数に発生している小さな地震の原因は、同じとされる。大地震に特別な原因は必要ではない。<br />
　問題は、そのような取るに足らない原因を出発点として、どの規模まで発展するのかが確率的にしかわからないということ。同じ原因でありながら、地震の規模が決定できないため、日本は過去100年地震の研究をしても未だに決定論的に扱えない(予知できない)。<br />
　臨界状態のさらに上を、超臨界状態といい、べき乗則には従っていると思われ、臨界が進むほど僕達の次元でいうところの大規模な変化の起きる確率は増えている。極限的な臨界状態となると、確率が100%に近くなり、原因&rarr;確率&rarr;結果という3工程のうち、確率が抜け落ち、原因と結果が1対1対応する。<br />
　起きてしまうと、たいてい臨界状態を生み出していた組織(ネットワーク)そのものが壊れてしまうため(例えば核爆弾の連鎖反応)、不可逆的な挙動を示すようになる。<br />
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            <name>ごんきゅう(権窮・GONQ)</name>
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