古典力学的には粒子の持つ全エネルギーは、運動エネルギーと位置エネルギーの和である。この見方で人間の成長を考えると、位置エネルギーを意識的に高めようとすることが重要である。おそらく、誰かが"努力している"という場合、その多くは運動エネルギーに関してである。
位置エネルギーとは、環境・境遇が無理やりにでも私どもから引き出したエネルギーである。だから、位置エネルギーを制御するとは、纏う環境(場)を意識的に制御するということになるのだろう。しかし、環境を変化させれば大抵初めはうまく適応できないため、弱い立場ならではの不安と不快な思いを改めて味わうことになる。だから、運動エネルギーのみに注力することで、ますます十分に適応できるようになる現在の環境の中に居り続けることで、最強を気取りつつ、こんなものでは私の心は満ち足りないと周囲に不満を洩らすようになる。
海水魚を淡水にぶち込むようなもの、淡水魚を陸に上げる様なものなので、確かに慣れるまでは不愉快である。どの程度の"不愉快さ"かといえば、程度を誤れば死んでしまうくらいである。毒の盛り方、つまり、場の制御は慎重に、大胆にするのが良い。
心理学での幸福の定義は、自分が今いる環境に自分が適応できていることを実感している状態・・・だとされる。だとすれば、進化・成長とはあえて不幸になる道を選ぶこととも言えそうだ。
最近は、小津安二郎の「晩春(1949年)」を見る機会がありました。構図を考える良い機会になります。ひとつひとつのカットを見ていくと、画面上での人物の配置がなぜこのようにしたのかを考えてしまいます。明確な答えは見つかりませんが、そのささいな変化が確かに見る人の印象を変えるのだということはわかる。その配置と印象の相関関係を炙りだして(パターン化する)、小津らしさというものを浮き彫りにしていきたい。
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