造型用に作って放置していたブログ「天変綱目」の更新をしました。こちらは当初の目的を変更して、映画の紹介をしていく予定です。映画の解説では、"正しい"ことなんて述べようとする気はさらさらないし、できない。反感を買おうとも自分が思ったことを偏見交えて書くだけ・・・それしか、できる道理がないだろう。目的は正しい評価をすることなんかじゃなく、構図や演出などの"引き出し"を豊かにするためです。この"引き出し"を作る作業は、年齢を経てもやり尽きることはないだろうな。誰よりも美しく整備したい。
僕にとっては、引き出しを作るっていうのは単に自分の力を"外部"から流入させるという意味以外に、優れた過去ものを、未来に"引き継ぐ"という観点からも望ましいものと受け取っている。その時代、その時代、常にそうだったように現代も優れた過去のものを知らずして頭ごなしに「つまらない」と置き去りにし、特筆した裏付けも無く自分の内部の可能性にのみ注力しようとする。そういう人間には最もなってはいけないと思うし、そういう人間の生き方に対して私は憎む傾向すらある。こういう点に憎悪を覚えるようになれてよかったと思う。
今までは、絵に関して"内部"の情報のみから構築できるように尽力してきたが、これからは"外部"の引き出しを整備する。目的に適った"外部"の優れた情報が、一体どこにあったのかを要領よく引き出せるようになりたい。そういった状態を可能にならしめる練習方法を習慣化できればと思う。"外部"の優れた情報を探さなくてはいけない。
映画を見てその構成を考えることは、絵を道具と化するには良い段階だと感じる。絵は描けて当然であり、次の段階、つまり、どう見せるか、どのように展開するかに焦点を移す。とはいっても、実写ですので、着物や髪型などの知らない情報の模写もせざるをえなくなるので画力も鍛えられる。以前は、マンガの模写でもいいと思っていたが、どんな偉大な漫画家が描いた絵であっても、そういうものは彼らが"自然"から得た情報を彼らなりの優れた方法で劣化させた産物に過ぎない…その程度でしかないと知らなければいけない…妙な幻想は捨てろ。そんな劣化物をいくら見ても、それ以上に目指すべき自然の多様性・精緻に近づくことは出来ない。真似るなら自然からであり、自然から学んで自分なりの劣化表現を示したい。
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