最近は、脳科学に夢中ですね。
焦点はやはり、"自由意志の有無"ですね。結論から言えば、"自由意志"はない。あるのは、"自由否定"らしい。確かに、殺意が湧くのは僕の意志に関係なく生じるけど、それを行動に移すかどうかを選択する猶予は僕にありますね。もちろん、その猶予を忘れるくらいに憤慨したりすれば、"魔がさした"という事態になるのでしょう。脳の神経回路の"ゆらぎ"が意思の端緒となるので、つまり、何かしようという思考がいつどこで生じるかの予測は、短期的にはまったく融通のきく類ではない乱雑な自然現象なのかと思う。
僕は「人間とは何か(著マーク・トウェイン)」に触れ、当時の決定論的風潮は嫌いじゃないので、物理法則に縛られないと感じる人間の自由意志を神聖視・特別扱いせず、水面の波紋が広がる一連の無我の現象と同じ感覚で捉えたいと思ってきました。仏教では"諸法無我"というのでしょうか。夏目漱石の晩年の思想"則天去私"では、もっと修身的意味合いが強いが、そこにはやはり、自分というものを消し去り、天の普遍法則に従えと薦めてるようだ。
人間や動物も含め例外なく味気なく通底している物理現象(諸法)に、人間は世界を彩るように好き勝手に解釈し、その解釈が正しいと信じて疑わない。解釈するためには指標となる"モノサシ"があるわけで、その"モノサシ"は普通に生きているだけでは大して精密かつ柔軟になるはずがないのであるが、どういうわけかその"狂ったモノサシ"から得られる出力結果に疑問を抱くことは本能に抗うかのように許し難く、場合よっては実質以上の自信を持ってしまう。"権理"は"権利"に変化してしまったが、"理を権る力"を養うというのは大変な努力が必要だ。"権理"の方が個人的には好ましい。
人間の"自由意志"の生起の実態は、物理的な神経内の電気的ゆらぎを端緒とし、ニューロンの層が幾重にも重なって、いずれ秩序だった、方向性のある思考が形成される。膨大な量は組み合わせ次第で、時として質を一変させる。故 宮城音弥氏は、自由と感じるのは幻想であり、私たちは本当の自由ではなく、行動に「自由感」を伴っているにすぎないと記していた。心理学的な実験も多々行われているようだが、脳は自分の言動に対して不本意・誤りだったとしても、自分が自分の意思でそれを望んで行ったのだ・・・と後出し的に、記憶・感情を修正し、内部矛盾が起こらないように補正する。これは、脳の特性らしい。ささいな無意識的な虚偽は日常茶飯事であり、むしろ自然な働きともいえる。奴隷が二人いて、その奴隷互いには自分を繋ぐ鎖の立派さで優劣を競い合うようになるという・・・これも自分を安定に保つために必要な虚偽の一つではないか。
そうした自然に脳が求める虚偽を真っ向から否定するようですが、"非才をかこつな"っていい表現ですね。今まで僕が複雑にこねくり回して表現していたことが、スパッと言い表された感覚。こういうことを既に言っている人がいるんだよね。"非才をかこつな"は、いくら努力しても自分のように才能のない人間には限界があると考えている人に対して、非才を言い訳にして努力を怠るなってことです。ニーチェの超人思想も同様だろう。神がある限り、人間は生きることの困難さを神に丸投げしてしまう。どんなに生きづらい人生であっても、外部の絶対者に頼ることなく、自らの確立した意思でもって行動する。安易な逃げ道は須らく封鎖すべきであり、全ての行いの結果を自身に帰責させられるように漏れなく因果関係を掌握する。それが超人だという。時代的には1900年プランクの量子仮説以前の古典物理決定論全盛期に生きた人だから、やはり因果関係は決定論的に解釈できるという思想はどぎつく定礎となっているように感じる。超人は皆それぞれ脳内に"ラプラスの悪魔"を飼えってことかもしれない。
超人思想は心理的な拷問器具のようなもので、絶えられる資質のある人には良薬だろうが、大抵は感情的に嫌われてしまうのが普通だろう。超人思想のモノサシで他者の行いを喝破することは、心理的だとはいえ、耐える覚悟のない他者に拷問器具を強制装着させるに等しく、これは超人同士でなければ成り立たない行為だと思われる。超人思想は男性的な発想だ。
幸田露伴の「努力論」より一節。
「天才という言葉は、ややもすると努力に拠らずして得たる智識才能を指差すが如く解釈されているのが、世俗の常になっている。が、それは皮相の見たるをまぬかれない。いわゆる天才なるものは、その系統上における先人の努力の堆積がしからめした結果と見るのが至当である。」
"至当である"って"極めて当然であり、適切であること"っていう意味だけど、使う言葉にしても洗練されている感がある。達する見解は皆同じなようだ。
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