昨日、ジュンク堂で洋書買った。
「Diffuse X-Ray Scattering and Models of Disorder」というタイトル。高かったぞ! だけど、この本は愛せる気がする。
巷に溢れている英語の学習書に対して、私が興味を湧く気質であれば凄く楽なんだが。私はそういう風にはできていないようでして・・・。こういう一見面倒な攻め方のほうが、どうやら身につくし、自分は耐えられると経験的に感じる。内容自体に興味があるものでないと読む気力が起きないからだ。英語が達者に出来ればなりたいが、どうやら心からそうとは思っていないようで行動に移らなかったが、いよいよ必要ですね。
良い文章を見つけ、覚えようと思う。良い英文(自分が使う可能性の高い表現)の編纂活動となるわけです。英論文を書こうと思っても求められる文章が浮かんでこないんだよね。当然だけど。
自分で英文を作ろうとしてはいけない・・・とよく言われる。なぜなら、作った文章は大抵間違っているからだ。作るより正しいものをまず覚えろと言われる。よくよく考えると、日本語の文章も自分であたかも作っているような感覚を受けるが、実は作っていないのかもしれない。典型文のような最低限覚えるべき文章を様々に組み合わせているに過ぎないのだと思う。
あるアニメーターは言う。雪崩のシーンを描くことに迫られた場合、そのようなシーンのある映画を数本即座に挙げられるようでないとけいないという。こういう意見は、他者に正しく建設的な努力の方向性を示してくれるから助かる。
ある漫画家は言う。自分が欲しいシーンは一体既存のどの漫画にあったかすぐに思い浮かぶと。検索能力が桁違いだ。
自分で一から作るのは大変だが、一から作ったものが優れているという保証はない。むしろ、既存のものを多く知っており、その中から最善を検索し、それを参考にして自分なりにアレンジした方が大抵出来栄えはよい。
話は空間整合性に移る。自分の目の高さは約160cmであるが、この時、地面を這う直線(道路と思えばいい)が自分から160cm離れている場合、その直線を紙面上に書くとどのような角度になるだろう。答えは45度。単純なタンジェント関数になるようだ。この知見は重要だ。なぜなら、絵を描くときに感性に任せて45度の傾きの線を引いたとしても、それは自分(カメラ)から見てどの程度離れた直線なのか言えるからだ。少なくとも、線を引く時に建設的な思考が伴っているだけでも進歩はあるだろう。
直線と同じ方向を向いた時・・・、目(カメラ)の高さをa(cm)、直線と自分の最短距離をx(cm)、その直線を紙面上(キャンバス上)に描く際の傾きをθ(度)とすれば、以下のような関係式が得られそうだ。
x=a・tan(90°-θ)
⇔x=a/tanθ
⇔tanθ=a/x
分かりやすいθ=22.5°(→x=2.412a)、30°(→x=1.732a)、45°(→x=a)、60°(→x=0.577a)、67.5°(→x=0.414a)だけでも感覚と理論を繋ぎ合わせたほうがいいと思う。θ=22.5°とθ=67.5°は関係がありそうだ。
tan(22.5°)-tan(67.5°)=2だからな。
一応これで、空間の収束方向に関しては制御できる。あともう一つは空間の圧縮率に関する知見。この二つを結びつければよさそう。今すっごい適当言っている。
当然のように立式したが、たった4点(x=50cm, 100cm, 150cm, 600cm)から回帰式を作ってて測定も超適当だったから、実際には幾何学的に証明する必要があると思う。
ということを考えていて、ふと思ったのはこれって測量学とかで既に基本的なことではないかということだ。ジュンク堂の測量の本棚に行ったんだが、行列計算、統計学を結構多用していたが、吟味する暇なく閉館だったな。次はもうちょい吟味しておきたい。しかし、ジュンク堂は今年の2月から23時まで営業するようになったのは嬉しい限りだ。
線分を2等分するのは簡単だ。しかし、3等分の場合はやや苦痛である。
でも円弧を3等分するのは僅かながら楽である。なら、角度を3等分するのはどうかというと線分の3等分より楽な気がする。そこで私が思ったのは、線分の3等分は厳しいが、角度を感じる円弧なら3等分がしやすいのではないかと。こう思うのは私だけか・・・。
そういえば、決定論に対して統計論というらしい。統計論は今ホットな分野です。
決定論は、実験系をより単純化(平衡状態=時間に関係しない系、変数を減らした系)して、法則を炙りだそうとする。ゲーテがこれに対して不快感を示したのは、当時の物理学者が人工的に作り出した単純な系は、もはや自然そのものなのではなかったからだ。自然に対して何も加工しない非平衡状態をそのまま捉える方が真実だと感じたからだと思う。とはいっても、単純化した系を作ることは優れた方法論だったわけだ。ゲーテが望んだ科学は統計論にあるのではないかと私は最近思うようになった。統計論は、地震の時期と規模、バブル崩壊の時期、歴史における革命や戦争、生物の絶滅時期と規模まで議論される。仮に決定論でこれらを攻めると、ラプラスの悪魔ですらきっと、数理モデルと変数の設定、寄与率の配分に窮することだろう・・・と思ったがこれは人間の発想・・・多分、この悪魔の総合力なら苦でないだろう。ラプラスデーモンが個の総合から全を導く(決定論的思考)なら、その逆、全体的傾向から個の挙動を導く(統計論的思考)存在が空想上いてもいいでしょう。人間にとっては、いずれの方法でも未来の予測は不可能だろうが。これらを両輪として使用する時代が来たら、それは次世代のパラダイムシフトにあたる気がする。
「科学は物事を説明しようとはしない。解釈さえもめったにしない。大抵はモデルを作るだけだ。(by ノイマン)」
こういうのを聞くと、今知っている法則式は、最も実験結果を説明できる単純な数式モデルに当てはめただけであって、自然そのものを表現したわけではないと感じる。でも、モデルを作れるような知識や技術は欲しいな。
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