ベルニーニは凄い。写真見て描いたが目標に達しなかった感じ。
本物見て描きたいです!!天使の腕がふくよかと感じる。
美しいものは自然と描こうという意欲がわく。いざ描こうと思って資料漁っても自発的に描こうと思えるものは見つけにくいが、そういう探索しないときに限って見つかる。体調とか気分の問題かもしれない。
美しいものは、自分の持っている原料の組み合わせでは決して構築できない要素を含んでいることを直感的に与えているのではなかろうか。美しい対象を凝視するのを止めた瞬間に、喪失感が起こり、自分の記憶の中の像がみるみる崩壊していくことが不愉快だ。私を惹きつけて止まない美しさの本質を掴んでいない僕には、脳内に対象を保存する機構がまだ確立されていないからだ。保存できる材料が集まれば、もはや対象そのものに固執する必要がない。実際、その対象以上の価値ある概念を手に入れたことになる。次の美しいと感じるものを我が物とするべく探し続ける。美喰屋とでも言いましょうか。
『絵は頭で描くことであって手で描くものではない(by ヴァザーリ)』とあるが、もっと言えば、理想的には『眼』も使う必要はないのだと思う。目をつぶっても筆は動くくらいでなければ『頭』で描いているとは言えない。模写の場合は、『眼』でよく観察することは必要となる(厳密には、法則性を抽出するので頭もフル稼働なのだが)が、模写でなく資料なしで描こうとする場合、目に見える紙面上の筆跡の情報を手掛かりとして描いているようではいけない。それはつまり、迷っており、定規を持っていないことを意味する。もっとも信頼し、優先させる情報(定規)は『頭』に既になければならない。この定規を作るために『眼』が必要になる。一旦、作られると『眼』は補助的になる。この感覚を感じてもらうためには、『自分の名前を書く』ことを考えてもらえるといいかもしれない。今まで小学校から散々書いてきた名前くらいなら目つぶっても書けてしまう。それも、頭を使っているという意識すらないレベルまで昇華されている思考となっているはず。
しかし、特別に鍛えられていない通常の人間は、その定規自体が大変曖昧で、拙いので、『頭』だけで描こうとすると限界を感じる。最終的には、『頭』だけで描ける事が理想なのだが、素晴らしい定規を作っていない段階で『頭』だけで描こうとすると思い通りに描けない。だから、『眼』で定規を作り、『頭』で定規を使うという関係があり、ほとんどの場合、前者の方が初学者には重要であって、後者の状態が許されるのは定規がある程度完成した人間に限られる。後者の人達だって、常に、定規をより好ましく更新していく姿勢が必要でなくなったわけではない。成長を感じなくなった場合は、大抵、『眼』を使わなくなった状態が多い。その時の定規により『頭』で描ける限界を感じ始めた状態ともいえる。
普段は絵を描かない人の中で、僕より『ピカチュウ』や『ドラえもん』や『ミッフィーちゃん』などを素早く、上手に描ける方は多い(但し、よくある絵の模倣の領域を脱しないが)。だから、『人』を描かすと上手いのに、『ピカチュウ』を資料なしに描いて、ピカチュウっぽくないことに驚かれる。そのギャップに驚くということは、その人の考える絵を描くシステムに少なからず迷信が混じっていることを証明していることになる。知っている対象は上手に描け、知らない対象は上手に描けない、といった当然の事実を信じておらず、神秘的・神話的な力が作用して絵を上手に描けるのではないかということを少なからず信じているのだ。
定規の概念がないと、自分が何をどの程度描けて、何を描けないかを区別し、把握することはできない。絵描きが、知りもしないことをも上手に描けるという観念が、どうやら存在しているようだが、これは迷信だ。何をするにしても、こういった迷信を自分から極力排除する姿勢がなければ大成はしないと思う。迷信との勝負!!その迷信も堂々と認識できるのではなくて、迷信とまず思っていないからやっかいだ。大概、その迷信を他者に否定されると憤慨するレベルであることが多い。つまり、迷信なわけないはずで、自分を支えるものを迷信としなければならない場合もあるのか。こういった迷信を生み出す温床は、ルサンチマンとも言い換えられるかもしれない。ここでは、迷信をルサンチマンと置き換えてもいいだろう。
ちなみに、『天才』という表現も迷信の一種だと感じる。その言葉で形容したところで、何ら物事の仕組みを理解し、説明できたことにはならないのだ。ただ、そう形容していれば、なんだか知れた気にもなるし、自分にその対象を評価できるだけの悟性があるという面子も保たれるというだけである。中世の中国で未知変数が一つの高次方程式の解法を『天元術』と呼ぶが、今でいう未知変数xのことを『天元』と呼んだのだ(天元とは、もともと宇宙を根底から支配し、揺り動かしている究極の原理・真理といった意味)。この意味に従えば、『天才』とは、未知なる能才を有する者という意味に受け取れる。『天才』という言葉で評価するのは既に滅んでしまった人間の価値観だ。世界を牽引しようとする人々は、『天才』という空っぽの言葉で騙せるほど従順な精神を持ち合わせてはいない。『天才』という表現を多用するならば、その人の問題解決能力はほとんどないと考えてよい。ただし、自分のことを天才と呼ぶならばそれは素晴らしい。わざわざ、そういった発言によって自身にリスクの大きい桎梏を課そうとすることは、保守的で月並みな理性では適わないし、根拠のない天才という表現が最終的な理由となる方法論しか持ち合わせていないとなると、そう言い続けるだけの成果と自信が持続するとは考えにくい。
『天使を描くためには、天使を見なければならない(by クールベ)』
この表現は、絵を描くシステムを端的に表しているように感じる。
PR