デッサン絵を更新。
私は絵を描き始めた当初、方法論なども持ち合わせておらず、唯一、自分の感性・直感のみを頼りにせざるを得なかった(直感以外に選択肢はない)。模写を行うことで自分の欲求を満たす程度の絵が得られることには薄々気がついていた。
私は、第一に感性・直感を大事にしている。しかし、絵における方法論を人に伝える時に、『感性・直感』を引き合いに出して説得したり、他者の姿勢の否定を行うことは建設的ではない。といっても、未知の物事を学究する初段階では、人は自分の感性に頼ることしかできないのも事実だし、誰でも自然にそうしているものだ。
古き良きものから学ぶ系譜意識は大切だ。学問にしても、今から基礎的実験を自分で一からするのは時間が許すなら当然行ったほうがよいが、現実的には、50年位前~現在までの良書を10冊くらい読むほうが効率的だ。このことは科学では常套であり、どの教科書も『直感』という表現での説明はされてはいない。直感は契機であって、尤もらしい理屈・説明は数式で簡潔に書かれている。では、この数式モデルに辿り着いた学者は、感性を一切持ち合わせていなかったのだろうか。そうではない。恐らく、鋭い感性によって自然現象を素直に捉え、最も法則性が顕在化されるであろう実験系を空想する過程があったろう。結果として伝えられる、誰もが利用可能な普遍的な数式からは、人の持つ感性とは相容れない印象を受けるのかもしれない。それは、運命を決定づける力を有し、人の意思・努力などで崩せる因果律ではないからだろう。即ち、この領域において自由意志は無力。しかし、そういうものが、万古不易、どの時代でも語られ続ける概念として、歴史の審判を耐え得るものである。
絵画の歴史でも、特に14-16世紀頃にこういう発想の人達がいる。デューラーの『絵画論』では、序文で彼のスタンスが述べられている。彼は人物描写で得た法則をささやかながら披露するので、後世の人々がさらに修正・発展させ、完成度を上げて欲しいという願いのような文章を書き綴っている。この要望に応えようとする人間が今までいたのだろうか。現代においては、そんなことよりも、『自分らしさ・独創性』を求める方が多いのではないでしょうか。自分の感性は人より優れていると盲信し、勝手気ままに描いた絵が評価される優しい世界なら、確かに多くの人が望む所なのかもしれない。
ゲーテは『独創性などない』と言い切っている。この見解に私は大変感銘を受け、渇望していた信念であると感じた。ゲーテは、当時、ロマン主義として出現した若者達が、過去の良いものを一切無視し、ただ自分達の感性のまま表現しただけの作品を掲げ、居丈高となっている状況に遺憾の意を示した。若者達はひたすら自分達の独創性を謳う。ゲーテはこのようなロマン派の作品は一時的で脆弱、病的なものと揶揄し、一方で、古典(クラシック)を普遍的、健康的で正統だと言っている。この風潮は、絵や詩だけでなく、音楽の分野でも同様であることを、とある若者が作った曲をモーツァルトに評価してもらう話を例に挙げて説明している。
ゲーテの箴言で『真理は発見されて既に久しい(遺訓より)』というのがあるが、これは、過去の偉業を無視し、習うことを知らない若者が、自分の再発見を自分の手柄として認めろという図々しさへの戒めに聞える。
独創性の発生メカニズムをよく考える必要がある。多くの場合、作品を作る側ではなく、作り方・歴史をよく知っていない受けて側の感想に起因していると推察している。
自分で自分の独創性を判断するにしても、過去に全く着手されていない真に未開の分野なのか、それとも、過去の誰々の発想の延長線上にあるのか、など相対的に考える視野・知識が必要だ。自分の力の起源を忘れるな。
これらの方々が今の自分の価値観・信念を形成する核となっているのでしょう。私は、絵に独創性ではなく、無個性を求める。僕にとっての無個性は、無知な人にとっては独創的だと写るだろう。それは、僕が作品に盛り込んだ思念を完全に分解・読解できないからだ。分解できるほど哲学的思考が鍛えられていないからだ。そういう場合、多くの人は『天才』などという、持て余す曖昧な言葉で自分自身の理性の欲求を満たし、思考停止となることで心の平安を獲得する。分解できる慧眼の持主は、僕の作品に面白みを感じず、ビリヤードのような力学的予測が可能な退屈極まりない系の振る舞いにしか写らないだろう。ラプラスやゲーテだけではないが、多くの偉人は悪魔と正面から向かい合い、飼いならしているという仮説が私にはあるようだ。
私は、直感を最大限に発揮した分析により、誰でも理解・利用できる理論に還元・総合することに努めたい...という立場です。ただし、無個性を競う人達にしてみれば、僕の絵は僕らしさがまだ臭い立っていると言われそうですが。
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