先週は、コスプレの好きな女性がモデルでした。
私達は中学生ぐらいから、無意識にしてもアイデンティティーの確立を目指してきたらしい。自分が好きな人、芸術、スポーツなんでもいい。人はアイデンティティーを否定されると、自分を馬鹿にされたかのように怒り狂い、落ち込む。なぜなら、その否定は私の否定と同義であり、それだけ自分と融和しているのである。自分を否定した相手は、自分にとって不快を与える許し難い存在だ。否定には否定で応えてやろう。事の真偽ではなく感情を優先したいのだ。
若い頃は、偶然自分の知りえたことが世界の全てであり、世界の本性だと思ってしまう。現在の自分が持つ価値基準は十分洗練されており、常に正しい解答を弾き出すという脱し難い観念を、結構な自信で多くの人が持っているのは事実だ。これは仕方がないことだが、そこから情熱・使命感が湧き上がるのならば、年相応の好ましい勘違いである。
今になって思うのは、次の精神的成長の段階として、今まで培ってきたアイデンティティーを能動的に放棄(取捨選択)できる精神構造へ変遷することではないかと感じるのです。
自分が本当に空っぽだった頃は、自分を形作るものが一つもなかった。ようやく手に入れた自分の欠片の真偽の検証は問題ではなく、ただ専ら大事にするが重要なのだ。しかし、年齢を重ねるにつれ、色々な素晴らしいものを手に入れることができた。比較ができるのだ。もはや、最後の一滴のように自分の欠片に固執する必要もなくなってきた。今までは、この最後の一滴が、偽物であっても私たちは盲目的に信じ、守ってきたのだ。
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