デッサン会の絵が溜まっているので更新。右の絵はネフェルピトーっぽくなった。髪が難しい。時間的な制約もあるからシルエットを捉えるのがやっとでした。
今期(秋)は結構アニメ見ているよ。インデックス、俺の妹、ヨスガ、綺羅星★、ざくろ、MM、そらおとf、神のみぞ、とらぶる、探偵オペラ ミルキィホームズとか見てる。ヨスガのソラルートは期待しているんだ。そのころも作画が保てるかどうかだけが心配。ヨスガのキャラデザは好きだな。キャラというよりは、アニメーターが描いたキャラデザの絵柄が好きだ。
以下、ラッセルさんからの引用です。
独創性とは何か。天才と凡人の境界を引く行動・思考様式の違いとは何か。人はいかに成長し、求める技能を掌握するのかといった見解は多くの方が既に語られている。
バーラント・ラッセル『幸福論』p177‐から引用。
↓
あるとき、ソーセージ製造機が二台あった。ブタをこの上もなくおいしいソーセージに変えるために作られた精巧な機械だ。(ラッセルはここで、ソーセージ製造機を二種類の人間に例えている)
そのうちの一台は、ブタへの熱意を持ち続け、無数のソーセージを製造した。一方で、もう一台は、言った。
『ブタなんかどうってことはないさ。私自身のしかけのほうが、どんなブタよりもずっと面白いし、素晴らしい。』
彼はブタをはねつけ、己の内部の研究にとりかかった。本来の食物が入らなると、彼の内部は機能しなくなった。そして、研究すればするほど、内部はからっぽで馬鹿げたものに見えてきた。これまでブタをおいしいソーセージに変えてきた精巧な装置は、全て止まってしまい、これで一体何ができるのか、彼には見当がつかなくなった。
この後者のソーセージ製造機は、熱意をなくした人に似ているし、一方で、前者の機械は、熱意を失わなかった人に似ている。精神は、不思議な機械であって、提供された材料を全く驚くべき仕方で組み合わせることができるが、精神は、自力で材料をつかまえなくては無力である。また、ソーセージ製造機と違って、精神は、自力で材料をつかまえなければならない。
もしも、種々の事件が私たちの興味を掻き立てないのであれば、私たちはそれを全然利用していないことになる。従って、内部にのみ注意を向けている人は、注目に値するものを何一つ見つけない。一方、外に注意を向けている人は、たまに自分の魂を調べてみるようなとき、心の中に、限りなく多様で興味深い種々の成分が分析され、組み替えられて、あるいは美しい、あるいは有益な模様を作りつつあるのを発見することができる。
以上です。
僕ならば、人の心を『水』と例える。水だけではいくらかき混ぜて、放置しても何も生じない。しかし、日々、色んなモノをドッポン、ドッポンと加えていけば、水を反応場として、僕が望む望まないに関係なく、概念・思念が結晶化し、取り出すことができる。この作用は、半ば強制的・運命的であり、一旦起こした反応を止める自由も僕にはない。この性質を機械と表現しているのでしょう。熱意を失わなかった心というのを『熱水』と例えるなら、心は鉱脈と同じ状態と言える。熱水は飛躍的にモノを溶かす。水熱合成に対応する。こうして得られる多種多様な鉱物の一部は宝石に成り得る。
質量保存則というのがあるが、潜在概念量保存則というものがありそうだな。(厳密には、質量欠損があるから結合が入れ替わる際に質量保存は成立しない)なんにせよ、ラッセルのこの説明はシステマティクである。人は外からの取り込みなしに有益な情報を一切生み出せないといってる。しかし、人は、特に若い頃は、無知ゆえに根拠なく自信に満ち、自分に無限の可能性を信じている感覚はあった。ラッセルの説明は、真実かもしれないが、魅力的かと問われると腑に落ちない。僕はどこかで決定論を強力だと思う傍ら、それを断ち切る存在に憧れている。まだ、心が若いからかもしれない。
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