右の絵は、髪が乱れているんですけど、もっと立体感出したかったですね。指とか、髪とか、情報が多い部分を敢えて十分に描く事ができる以上のスピードで描こうとしていると、たまーに良い手さばきが生まれるときがある。この手さばきは、どういう思考経路で行っているのかという理屈を考えると非常に言語化しにくい。でも、どういった行動によって生まれたか、身についたか、ははっきりしている。それは、今自分ができる以上に速く描こうとした行動からである。
自分が『出来る事・行っている事』ことが、自分が理屈を理解しているから実現しているわけではない。やっぱり、理屈を述べるのは危うい。自分をどこにでもある平凡な試験体という認識でもって、投薬実験されているという立場の方がいいか。試験体の精神よりも体の反応の方に興味がある。風邪薬飲んで、治る理屈を理解している者だけに効き目があるとかだったら誰も買わない。
科学における理学と工学の関係も近しいものがある。工学は、現象の理屈を理解できなくても、十分傾向を予測できるなら大いに利用していこうという姿勢だ。理由を窮める理学も、探求して得られた結論が、『世界はそういう風にできている』と言えるに過ぎない。真偽を考慮しなければ、宗教の方が理由という面では人々の需要に適っているものと思える。
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