ガンダムUCの第二話でシャアが『私は自分を器だと規定している』とか言っていたんですが、こういうことを言わせる台本を書いた人はよく知っているなぁと思う。
無個性への求心、アイデンティティの能動放棄、独創性への無関心という思想が働いているのではないか。哲学者(実際は、兼数学者とか兼自然科学者、兼政治家など色々なことをしている人が多い)は、既存の誰もが疑わず信じている概念を否定し、自分の見方も一つの真理だと主張することが仕事のようなものだが、そういった中でも比較的否定の余地がなく、多くの哲学者が語っている主張はありそうだ。それが、この辺りなのかなぁと思っています。
どの哲学者の主張も、その哲学者自身が単独で思いついたわけではなく、彼らが生まれた背景・地盤を考慮しなくてはならない。だから、誰かと誰かの意見を比較する場合、どちらが先に出生したかということを確認することは結構重要だと思う。
ゲーテ(1749-1832)は『ゲーテとの対話』で独創性などないことを言っている。以前、神保町でゲットした『人間ゲーテ(小栗 浩[1978年])』はゲーテの言うところの『独創性・天才』の捉え方を知る上で優良な本です。
以下に、心に残った文章を引用。思想がもう血肉と化しているから僕の言葉で表現することも可能であるが、引用の方が力強く、興味も持っていただけるかもしれないという配慮のもと引用します。
『天才とか独創とかいうことがよくいわれるけれども、そういうものは全て、父母だけでなく外界のあらゆるものから学びとったのであって、そういう他からの感化がなければ天才などありはしないのだ、といっているのである。』
『独創独創とやかましくいうが、およそ誰でも自分の身に備わっているものはみな人様のおかげなのだ、そのことを忘れぬようにしたまえ。』
『世にいわゆる独創などといったものがその名に値しないことをわかりやすく言うために、ゲーテは冗談交じりに父母の性質を自分に結びつけていっているだけであって、この文句からゲーテの性格の説明を求めようとするのはよほどの見当違いということになる。』
『ゲーテは、独創を誇る詩人思想家があとを絶たぬのに業を煮やしたらしい。特にロマン主義者たちの独善的な天才ぶりは腹にすえかねたようで、しばしば寸鉄の矢を放っている。』
『むろん、独創が悪いのではない。しかし、既に多くの英知が語られているのに、なぜそれを手に取ろうとせずに、わざわざ目をつぶって通り過ぎようとするのか。大切なのは、誰がそれを始めたかではない。それを本当に我が物にすること、それを自分の人格に取り込み、自分の生活に生かすことが重要なのである。』
『昔のものであれ今のものであれ、詩人が自分のものとして悪いものがあるだろうか。せっかく花が目の前にあるのに、それを摘むのをなぜはばかるだろう。人の宝を本当に我が物とすることによってのみ偉大なものが生まれるのだ。』
『そういう落ち着いた英知はゲーテの晩年のものだといわれるかもしれない。しかし、彼はその青年時代から、模倣といって悪ければ換骨奪胎の達人であった。先人に学ぶことによって自己の個性を発揮するという点でこそ彼は独創的だったといってよい。』
あぁー、ゲーテとお話したい。語り合いたい。エッカーマンいいなぁ。エッカーマン自身は決して勉学を優先できるほど裕福な家庭に生まれたわけではないが、大人になってからも午前中に高校(周りは若い学生ばかりの中)、午後から役所で仕事する生活を長年過ごした。ゲーテと出会い、秘書をする傍ら、名著『ゲーテとの対話』を書き上げた。彼がいなければ大著『ファウスト』の完成もなかったかもしれないとゲーテ自身が語っていた。ゲーテの士気に貢献したんだな。
以上は、ゲーテの信念であるが、マーク・トウェインやバーランド・ラッセルも彼らの著書で同様の信念がありそうだなと見受けられた文章を以前見つけた。もちろん、表現はそれぞれですが、次回はそのあたりを報告します。
そういえば、引用について調べたんだが、引用するためには7つほど制約条件がある。いずれも満たしていると思う。
ゲーテは色彩論も展開してて、ゲーテ自身、当時主流だったニュートンの光学よりも真理だと考えていたようだ。法則性を顕在化させやすくするために、人工的に環境を制約し、原因となる変数を少なく出来る系を科学者が考案し、作るのであるが、その行為自体が自然を素直に見ることを妨げていると感じるのだ。ゲーテはその辺りの繊細な部分に興味があり、イリヤ・プリゴジンらが言うカオス、フラクタルに繋がる分野にゲーテは早くも着眼できる素養があったのではないだろうか。
行列力学の創始者ハイゼンベルグがゲーテの詩を吟じ、ゲーテを題材とした著書『科学-技術の未来 ゲーテ・自然・宇宙』を書いている事は、決定論からの脱却に、ゲーテの思想が働いたように思える。
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