また、キチガイ染みたことを述べます。
決定論(運命論)・虚無主義を基底状態として、神秘主義・汎神論を励起状態とする心境が出来上がっちゃいました。もはや、恋に恋する乙女の心境だ。
選び読んだ本の積み重ねの結果であるが、僕の自由意思によって得られた結果と言えば傲慢だと言えよう。結果の原因を自分に求めるのは既に間違いだ。僕はそんなに特別な存在じゃないだろ。残念ながら、運命を統べる白き糸を紡ぐ手は持ってはいない。ある人間(サンプル)が今の世界に知恵を求めれば、大抵、僕のような心境になる世界になっているという見方が正しくて、その方が人間がいかに無力な存在かを自覚した謙虚さが伺える。
今までふつふつと思っていた僕の傲慢(or謙虚)な考え方を言おうと思う。もちろん、この考え方の背景には、上記の基底状態と励起状態が錯綜している。
第一に、『上手い絵が描ける状態』と『下手な絵が描ける状態』は、等しく特別な状態といった価値観を推薦したい。普通は、人間が勝手に『上手い絵が描ける状態』を優れており、困難だと判断しています。
例を挙げます。今、地球人的な芸術的感性はないが、非常に理性の働く宇宙人に『下手な絵が描ける状態になってください』と要請することと、『上手い絵が描ける状態になってください』と要請することは、いずれも宇宙人にとって同じくらい熟考・吟味する必要がある課題なのだということである。どちらも決して簡単ではない。結局、人間の言うところの『下手』とは、理性を働かせていない行動結果と換言できよう。
例に宇宙人を挙げたが、他の例として、絵を自分で描けるロボットを作ろうとする場合も、この価値観は惹起されやすいだろう。下手な絵を描かせるために、どのようにプログラミングするか。
第二に、自分が理解できてない(or知らない)事柄は、大抵、周囲の人間も理解できていない(or知らない)から、今の自分も理解できていない(or知らない)状況なのだという考え方である。この意見は、横着で、他力本願と感じる方もおられるだろう。でも、人が持っている知識の99%は誰かしらの借り物にすぎないのは事実でしょう。今まで借りた概念を一つ一つその起源を辿り、貰った人に返し終わった時、自分発祥の概念などほとんど残っていないだろう。自分発祥の知恵があったとしても決して無から生まれたわけではない。その発祥の起源・契機は他人が育て上げたものというのも少なくないだろう。
この考え方は、まず、個人単体からの無限とも言える知的情報の洪水の幻想を捨て去る。ハルヒは幻想なのであり、ハルヒが存在するなら、確かに彼女は、人間ではない。
ある人がパソコンに詳しいなら、そういった情報を圧倒的に感受しやすい境遇・環境が一般人に比べ、過去に存在したと考えるのだ。決して、その人自身の万能性・生来性に依拠するとか思い違いをしてはいけない。
さらに、この考えに基づけば、分からない自分を『ダメな自分だ』と自分を責めることは、大いに間違っている。加えて、第一で述べた考え方に基づけば、『あなたは、ダメな自分の状態を自分で選択できるほど自由な世界には居ないんだよ。もし、これ以上、自分はダメだと責め続けるのなら、あなたは自分が運命(自分の意思でダメな自分の状況を作り出したということ)を操れる器があると思っていることになるんだよ。』となる。
河原に落ちてるゴツゴツした石が、周囲のスベスベの石を見て、『自分はスベスベになれなくて本当にダメな自分だ』と言っているようなものだ。再三言うが、スベスベかゴツゴツかは、気まぐれな河川の軌跡が決めるのであって石ではないのである。
ただ、以上を持ってすれば、どうすればダメな自分を脱却できるかは検討がつく。赤くなりたければ、朱に混じるような状況に自分を置けばいい。
朱に混じっておきながら、赤く染まらないのもまた大変なのだ。というか、人間に赤く染まらないかどうか選択する自由などない。そういった抗えない力が働いている。
(追記101104)web拍手返信
●真昼さま
お久しぶりです。お元気ですか? web拍手見れるようになっています。すみません。拍手ありがとうございます。
そういえば、真昼さんのリンクを今更ながら気がつきました。僕の陰湿・内向的な感じとは対照的に、クールでアウトプットな感じで驚きました。ちょっと拝見させていただきたいと思います。
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