最近は、足が描ける様になってきた。何も見ずに描けはしないが、見ながらであれば以前より抵抗が少なくなった。髪の毛が難しい。立体感を出しつつ、線数を少なくして描くのであれば、植物の葉っぱが何枚か覆いかぶさった感じで大まかに描くのがいいのでしょう。生え際の線が頭をどのように走っているかを念頭に置かないとね。恐らく、まず、頭に線を数本引く。それを生え際として描くことで違和感なく仕上げる経験を積まないとね。
新しいブログ作りました。フィギュアとか作りたくなって。将来的には、フィギュアに関わらず立体物の造型でもしてみようかなと思っています。
名前は『天変★綱目』です。リンクに追加しておきます。
あと、そろそろ本腰入れて、人体の比率を統計処理から割り出そうと思います。統計処理に必要な母集団の情報はどこからいただくかが問題ですが、これは無償で提供しているサイトがありますので、そこから拝借したいと思います。一方で、商品としてデータを販売するところもあるようです。例えば、体の部位約170項目の寸法をエクセル形式で販売し、一人分のデータは100円。50000人なら五百万円。統計的には集団が大きいほどバラツキが小さくなる。しかし、100人でも1万円ですからね。メーカーが椅子や机などの人の形状に関わる商品を作る場合に、そういった情報は不可欠だろうからメーカーは買うのかなぁ。
目標は、年齢と人体の比率の関数化。年齢といったけれど、胎児の段階から考えないとね。なんとしても近似式を見出してみせる。というか、既に知られていてもいい気がするんだけどなぁ。アカデミックな論文ならもしかしたら既知情報かもしれんが、使っている情報源が異なっているならやる意味はあるだろ。というか、結果よりも導出工程を味わうことが重要なんでしょうけど。そういった意味では、簡単に得られる情報でなかったことは、自分で導出しなければならないという動機を与えてくれて好都合だ。残るは、実行に結びつくまでに、自分がそれが必要だと真摯に感じる感性を持ち合わせていることが問われている。
関数はまず得られると仮定して、僕がそれ以上に何に期待しているかというと、例えば年齢が500歳とかになった時の人体形状とか現実的に起こりえない空想がある程度の根拠を持って得られるという点です。まぁ漸近するのだろうが。関数になれば、極限値とか求められる。
デッサン会では確かに感性に訴える印象が強いです。目の当たりにする肉感や存在感は描き手にとって最上の情報が得られているという実感はありますし、今の状況を作ってくれた人達に感謝しています。一方で、統計値を算出できるデータを調査してくれた人達にも感謝です。これからは、特に、この二つの作業を連立して行います。
追記101110
0.模写の技術
→与えられた情報を正しく取り込み、取り出すこと。一切の自己主張はいらない。自然の代弁者となれ。
1. 構造の理解
→人体解剖図の模写。構造を知ること。構造を知らずに上辺だけ似せた絵は、結局のところその程度でしかなく、その理解の程度は素直に絵から読み取れる。構造の理解は満たすべき最低条件である・・・と言いたい所だがそれぞれの目的に見あうだけ善処すればって感じ。ここの部分は僕の執着の方が異常。
2. 構造の抽象化
→構造の精密な把握をしたなら、今度は実際に自由にかけるような方法が要請される。1.から求める終点は知っているのであり、終点に至る工程、ルールを考える。私は抽象化がそれに当たると思う。複雑な人体を簡単な図形に置き換える。→4. 遠近法との融和
3.ルールの理想化
→恐らく、それぞれの経験・感性によってルールを決めても、そこそこ終点まで達せられるでしょう。しかし、ルールも理想があるなら、それに従うほうがよい。私は、統計データに基づく抽象化が必要だと考える。ここで、理想とは定規であり、理想でないものを描くために必要となる。単位のようなもの。
1,2,3はいずれも0.模写の技術が拙いと成立しない建築的な作業である。模写の技術力に応じて、建設できる搭の高さが決まる。自分より模写が上手であり、上手に利用できる人間にこそ本当の恐れを覚える。
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