デッサン会はいい勉強になります。頭の中で、逐次的に理論値と実測値の擦り合わせをしてるんだろうな。この計算処理スピードは相当速い自信がある。でも、スピードよりも理論モデルの完成度のほうが重要でしょうよ。
観察よりも理論が優勢になると、対象を見る時間が大幅に減少する。対象を見る時間が減ることは、模写を行う上では悪い習性である。理論を信頼し過ぎると、もの自体をよく見なくなることから拙い理論を改変する機会が減ることになる。
理論の創出起源はどこにあるか。理論はそもそも、対象をじっくり観察することから経験的に得られ、体系化された知識なのです。理論を過信できる状態まで理論が発展したからといって、対象をじっくり観察しなくなるのは、『理論を過信できる状態』に至る起源を忘れた愚かな姿勢だ。そういった人間は、最近成長が感じられないと言う傾向があるのかもしれない。今まで、感じらていた成長の起源を知らずに成長していたのだろうと思う。
追記101107
『逐次的に理論値と実測値の擦り合わせをする』という部分についての続き。
絵を描く感覚はスポーツに近いと思われる。野球でもスイングのフォームを自分のビデオを見ながら、理想に向けて日々どこが悪いのか修正し、体に覚え込ませていく。理想というものを設定して練習してはいるが、実際の試合でバッターとして打つ時には、体が無意識に理想通りのフォームを行うようになっていなくてはならない。
この無意識の動作(なんとか打ってやろう位は考えているだろうね)を、理屈で説明するのは結構難しい。ピッチャーが投げてから打つまでの短時間の思考を表現するならば、『無心』『体が勝手に動く』というのがピッタリでしょう。モノを考える神経回路を介さずとも、待ち受ける障害に対処できる洗練された思考経路なのでしょう。『高次の条件反射』と言えるのかもしれません。
僕は6年間キャッチャーしてきたから、野球のことはよく判っていますが、もっと誰でも分かりやすい題材がありますね・・・『歩行』です。あなたはどうやって歩いているのか説明してくださいっていうのがいい例ですね。正解は『何も考えてないよ』でしょうね。理屈を持ち出すとおそらく感覚的には嘘になる。でも、僕たちが初めて立ったり、歩き始めたりした当時は、相当試行錯誤したのだと思います。当時は、歩き回る大人達を見て模倣し、感覚から得られる経験知・理屈を最大の武器にしていたのではないでしょうか。
実際に絵を描いている最中も、完全に『高次の条件反射』とはいかないまでも、体が覚え込んだ機械的処理の部分が多々あると感じます。ここの部分をあえて説明しようと思うと、都合の良いコジツケとなる。だから、自分の主張が、単なるコジツケとなっているかどうかは細心の注意を払う必要があるのだと思います。
ここで、僕が特に強調したいことは、体が覚える『高次の条件反射』に至るまでに、自分が採用するべき理想を探したり、作ったりする作業は『作品を仕上げる』という行動以上に時間を割くべきではないか・・・ということです。現実的には、両者を同時にこなすのが最良でしょうね。
個人の感想・感覚を言った所で、それを他者が応用できるとは思えない。実際、上手に出来る人間は出来てしまうが故に、見当違いのコジツケ・理屈を主張しても一目置かれる保証があるし、主張内容もそれらしく聞こえる場合がある。出来る人間は自分がいかに『天賦の才』があるかを強調したいがために、脚色して大げさに表現しようとするかもしれないが、出来ない人間にはたとえ嘘だと分かっていても無視しきれない意見に感じられるのです。
極力、嘘をつかずに他者に技術的な進歩を提供するために、自分ができることは、自分の掲げた方法論(何を参考にし、どのような行動をしたか)を明示し、それに対して、どのような効用がどの程度得られたかを絵(実力)で示すことだと思っています。そうであれば、たとえ僕が失敗しても成功しても、貴殿の貴重な時間を節約できる位は役に立つと思うのです。
誤解を恐れずに言ってしまえば、僕の『感想の記述』は無視してもらって構いません。僕をモルモットのようなサンプルに見たてて、与えた『条件』に対してどのような『反応・結果』を起こしたかを注意して淡々と見て欲しい。モルモットの個人的な意見は様々だろうが、条件→結果だけは一意的だろうと思います(一意的になるように条件を厳密にするといった方が正しいのでしょうが)。
意見が様々なのは、モルモットの経験・境遇・環境・教養・人間性などにより表現の幅が個人個人で偏りや制限があるから仕方がない。
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