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後日なんか絵を描こう。


以下、若輩者でありながら思ったこと、知ったことを書き綴った。冗談半分でお読みになってください。

岡本太郎について、調べる必要があってPHP新書の『岡本太郎「太陽の塔」との最後の闘い』を読んだよ。

 要約すると、大阪万博(1970年)で、岡本太郎は、イベントの基本理念であり、テーマである“人類の進歩と調和”に反対していた。その反対を、いわば、反博テロとして表現したのが太陽の塔なのだという。この太郎さんが持つ思想はどのようにして形成されたかが主題となっています。

 彼の培った考え方は、多くの賢者が述べてるように、過去の遺産への畏敬を持てといったものだ。当然ながら、今しか見えず、今が過去のいずれの時代よりも優れ、進歩した時代だと信じて疑わない大衆には持てない観点である。
 また、彼の絵画に対する姿勢も興味深かった。彼は絵描きではあったが、一旦、絵描きをやめてパリ大学の哲学科に在籍して、カント、ヘーゲルを学んでいることに『なんだとっ!それは本当か!!』って思った。
 私は思いました。やはり、普遍的で、永続的に評価される作品を生むその原動力と着想は、各分野の表現上の技術的優劣にあるのではなく、その技術を駆使する人間の哲学にあるのだと。やむにやまれず沸いた執念に近い哲学を、音楽、絵画、彫刻、文学、演劇、自然科学、建築など何れの技術を用いて表現、もしくは証明しても構わない。天才的、即ち、未来に永続的な生産力をもたらす作品というのは、小手先の技術ではなく、その技術を扱う人間の精神の深遠さにあると感じました。
 岡本太郎ら多くの賢人が言いたいことは、まさにこの人間の質のことである。今の世の中、天才、即ち、未来永劫の生産性を生み出すことができる人間が、今までのどの時代よりも少なくなってきているという感覚だろう。今の科学技術の繁栄は、科学革命以後、高々過去200年の先人の努力・資質が生み出した普遍知識であり、今の人間の偉業ではない。これは貴族の世襲制に似ている。偉業を果たし、ナイト、バロネット、バロンなど称号を得た父は偉大であるが、生まれながらに金・権力を相続する権利を持つ息子は、間違いなく父のように偉大にはなれない。今の私たちはその息子に他ならない。今の科学は、父の遺産であって、我の力と勘違いして自慢するどころか、父を畏敬する精神、学ぶ精神を持続させなければ必ず滅ぶ。歴史は教える。そうした息子は不満を持つ虐げられた人間に殺され、新しい父となりえる天才的能才を兼ね備えた人間(異端的革命者)が台頭することを。
 以上のような見解は、僕が古書店で科学系の教科書を買う時にも常々感じる。やはり黎明期‐まさに解明すべき対象と正面からぶつかり合った世代‐こそ素晴らしい知識が漏れなく溢れている。現代の本がいかに生ぬるいことか。書くべきことが書かれていない。誰もが、どんな天才であっても、つまずくべき石が既に道から退けられている。いや、本当は天才だったからこそ凡人ではつまづけない石につまづけたというのが真実だろう。そうした石が本来はあるのであるが、論理体系の編纂・推敲の過程で、あえて排除したと考えられる人間が生きている時代ならばまだ良い。第三世代、第四世代にもなれば、次第に、石など元々無く、想定もできない人間が増え始める。そもそも、凡人では発見できない石だということも考慮すると、自然そうなる。その場合、そうした石があったために成立する理屈・論理が説明できないために、愚かで見当はずれな飛躍でしか説明ができない人間しかいなくなるのだ。そうはいっても、やはり、天才が考えを巡らせた膨大な知識・経験・時間の数千分の一の労力も費やすことなしに、現代の教科書から、天才が到達した真理が得られる今の人間ほど恵まれていることはない。仮に教科書を見て理解できないことがあったとしても、発見者より少ない情報量で理解させようしているのだし、理解できないほうが発見者に言わせれば自然なのだよ。教科書を理解したと今の時代に生まれた僕が言っても発見者に苦笑いされてしまう。
 世代を重ねるにつれ、天才の偉大さを正当に評価できる人間は少数となる。無知文盲な人間が自分の体裁を取り繕うために『天才』だからという迷信染みた短絡的な回答を好む。だから、今の世の中、なんと易い天才が溢れていることか! 多くの『天才』という発言は、天才を正当に評価した結果使われた発言ではなく、凡人の憐れな悟性にはあまりにも不相応な巨大な虚栄心が欲する慰めの発言である場合が多い。そして、正当に評価できるようになったら、天才という一言で片付けることに違和感を覚え始め、むしろ、必然的な感覚を持つようになる。自分にとって裁量不能の現象を、全部、神様や天空の秩序のような類で片付けていい世界は、300年前に終わっている。この件に関しては、多くの哲学者がそういう宗教的世界観に従う民衆、特に僧侶を呪った本を書いている。
 書籍の質が下がるのは、需要と供給で最も採算がとれる程度のレベルが最も書籍として販売されることと、そもそも偉大な父はこの世におらず、お馬鹿な息子達が執筆する構造的欠陥が多々見られる本しか存在しないからだろう。もし、本当に偉大な父が生きているとすれば、そういった技術者は最先端で働いており、知識体系を編纂する段階ではない領域にいるのだろう。わからないことに対して、なぜそうなのかを突き詰める体質でない人間でも、今は科学者になれる・・・そういった貴族的状況だ。そういう人間が増え続けると、互いに自分の低能さを気づかれないようにする美辞麗句、馴れ合いが必要になるのは、人間の性質上避けられない。

 今はただ、自己顕示欲・虚栄心にまかせ、先人の遺産を正当に受け継ごうとする意欲のない愚者が、根拠のない自信-いわば、自分は生れながらに特別であり、他者から学ぶことなど何一つ無いくらい優れた人間だという観念-に基づき、極めて幼稚な自身の作品を自画自賛する程度の人格しか成長しない世の中なのだと・・・と私は受け取った。こうした傾向は人間の本質的な欲求も絡んでいると思うし、プラスの効用も多分にあるのでサジかげんが問題かな。こうした観念・欲求を満たせる機会、つまり娯楽が比較的現代には多いことも関係しているだろう。自己主張だけは一丁前で、発見・発想が誰のものなのかに関しては躍起になって分け前を求める。世の中、パクリでないものなど論理的にありえないということを知っておられない。こういう人間は、模倣の意義を知らない人間は、凡そ芸術的才能はないといっていい・・・。なぜなら、芸術は、自分よりも崇高な対象に接近するために、執拗に対象を模倣しようとする過程が長期に渡り不可欠だからだ。これは不断の自己犠牲、主観の放棄、滅私の強要に他ならないのですから。誰もが堪えられることではない。恐ろしいほどに練熟しきった模倣技術により、大量の知識が精確に取り込まれ、大脳皮質連合野にて高度に複雑にあらゆる組み合わせが無意識下で試行され、いずれ生じる、凡人では関連付けられない、起源追尾しきれない、素因数分解できない、一辺の曇りもない大粒の単結晶のような作品を、独創的だと大衆は評価する。つまるところ、パクリかそうでないかの判定は、大衆の悟性・教養に掛かっているといえる。
 絵のみに固執するのは避けた方がいいのだろう。視野が狭いと、唯一の自分の武器と意識できた絵を描くことが大事でたまらない。絵を描くことを一旦捨ててしまえって位の何か他のものへの没入が必要なのでしょうか。事実、文献に拠れば、岡本太郎は27歳頃、『絵描きはしょせん絵描きにすぎない』とある種の空しさを感じ、パリ大学の哲学科、民族学科に在籍し、一度絵とは無縁の論理の世界で過ごされたことが叙述されていた。
 ゲーテは、恐らくこう教えてくれるだろう。絵で表現するという出力方法は徹頭徹尾一貫して一つに定め、訓練を続けなさい。特に若いのだから、最も規範と成りうる教科書に沿ってね。それが、あなたの今行なうべき活動だ。しかし、入力に関しては様々な分野から学び、刺激を受け、修行として意欲的に励みなさいと。
 絵を描くことが自分であることのアイデンティティと仰られることを、否定はしないよ。でも、多くの偉大な作品を残した巨匠にとって、絵は自身の人生観や美的意識を反映させる一つの表現にすぎず、絵を極めるが故に絵以外の分野にも没入する生き方であった。この世を知るという! 500年経った今ですら彼らの作品は優れて新しく、われらを引き付けて止まない。どんなに優れた種子-哲学の胎児-であっても、砂漠では育たない。相当素養があれば、砂漠ですら哲学的思考をするには十分刺激的かつ単調だろうが。だが、そういった人間は砂漠以外のもっと刺激に満ちた環境を切に求めるでしょう。そのためには、やはり、十分湿り、養分が豊富な土壌を要求する。

以下、抄録引用・・・と思ったが、ページ数だけ記そうっと。

『岡本太郎 「太陽の塔」と最後の闘い』
平野暁臣(著)
p123-125
p139-141
あたりが琴線に触れる。

追記110106
ヴォルテールの『断片』より抄録。
『独創力とは、思慮深い模倣以外のなにものでもない(by ヴォルテール)』
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Rg
無題
先人に感謝と尊敬ってのは大事な話だと思うが,どこまでがその対象かってのは難しいな。
ひらがな書くたびに平安時代の女流作家に感謝するのかって話。ゼロ見るたびにインド人マンセー!はできんな。
少なくとも俺は,ひらがな書くときに誰かに感謝するとすれば,面識もない大昔の誰かさんよりは,ガキの頃に字ぃ教えてくれたウチの爺さんかなぁ。
 
昔に何かを生み出した人間だけがすごいんじゃないぜ。
それを評価できる人間がいたから認められたのであって,伝えた人間がいるからいま自分達が知るに至ったわけだ。
いまも昔も同じ,どんなに優れた天才がいたところで,まわりに人がいないと存在価値はゼロね。
 
それに,こと科学に関しては,いまも昔もそんなに変わらんよ。
金(きん)を生み出そうとして試行錯誤して,その結果として新たな元素を見つけ出していた一昔前の錬金術師と,金(かね)を生み出そうとして新物質を模索している現在の企業の開発者。
発見の対象が自然摂理の根底に近いか否かの違いはあれど,いまも昔もやってることは変わらないさ。
とはいえいまと昔じゃ,発見数の爆発的増加によって,一つの発見に対する評価が低くなっている感は否めないが。
 
とりあえず絵描け,絵。
y2010/12/28 01:27z NAME[あび] WEBLINK[] EDIT[]
無題
 読み直すと、なかなか世の中を呪ってる感が滲み出ててヒヤヒヤするね。自分が書いたことではなかったことにしたい! 哲学者の著書って、基本的に『それ絶対お前の私怨だろ!何があった!!』って感じで、欲求不満を解消とほんのちょっぴりの真理がある。僕に彼らが憑依し、洗脳されていました。自分の考え、というよりか、先人の知恵を纏めようと呪いながら文章書いてました。
 それにしても助かりました。汁粉に塩が入って、ほどよい塩梅になった感じです。感謝!!。

 途中から絵を挙げて、修正更新するの無理っぽい。次描きます。
y2010/12/28 04:36z NAME[ごんきゅう] WEBLINK[] EDIT[]


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・真理編纂活動
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確信・直観の裏付けのための書籍。即ち、焚き木。
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(岸田劉生)
■ 自分の中に毒を持て
(岡本太郎)
■ 人間の建設
(小林秀雄、岡潔)
■ 人生の鍛錬 小林秀雄の言葉
(新潮社 編)
■ 現代語訳 学問のすすめ
(福澤諭吉、訳:斉藤孝)
■ 努力論
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他、少々。

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(坂井建雄、松村譲兒)
★ やさしい美術解剖図
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★ やさしい人物画
(A・ルーミス)
★ 漫画の教科書シリーズNo.3リアルなキャラクターを描くためのデッサン講座
(西澤 晋)
★ The Art of Drawing
(Willy Pogany)
★ ANATOMY AND DRAWING
(Victor Perard)
★ デッサン学入門~創意の源泉を探る~
(南城 守)
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