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 造型用に作って放置していたブログ「天変綱目」の更新をしました。こちらは当初の目的を変更して、映画の紹介をしていく予定です。映画の解説では、"正しい"ことなんて述べようとする気はさらさらないし、できない。反感を買おうとも自分が思ったことを偏見交えて書くだけ・・・それしか、できる道理がないだろう。目的は正しい評価をすることなんかじゃなく、構図や演出などの"引き出し"を豊かにするためです。この"引き出し"を作る作業は、年齢を経てもやり尽きることはないだろうな。誰よりも美しく整備したい。
 僕にとっては、引き出しを作るっていうのは単に自分の力を"外部"から流入させるという意味以外に、優れた過去ものを、未来に"引き継ぐ"という観点からも望ましいものと受け取っている。その時代、その時代、常にそうだったように現代も優れた過去のものを知らずして頭ごなしに「つまらない」と置き去りにし、特筆した裏付けも無く自分の内部の可能性にのみ注力しようとする。そういう人間には最もなってはいけないと思うし、そういう人間の生き方に対して私は憎む傾向すらある。こういう点に憎悪を覚えるようになれてよかったと思う。

 今までは、絵に関して"内部"の情報のみから構築できるように尽力してきたが、これからは"外部"の引き出しを整備する。目的に適った"外部"の優れた情報が、一体どこにあったのかを要領よく引き出せるようになりたい。そういった状態を可能にならしめる練習方法を習慣化できればと思う。"外部"の優れた情報を探さなくてはいけない。

 映画を見てその構成を考えることは、絵を道具と化するには良い段階だと感じる。絵は描けて当然であり、次の段階、つまり、どう見せるか、どのように展開するかに焦点を移す。とはいっても、実写ですので、着物や髪型などの知らない情報の模写もせざるをえなくなるので画力も鍛えられる。以前は、マンガの模写でもいいと思っていたが、どんな偉大な漫画家が描いた絵であっても、そういうものは彼らが"自然"から得た情報を彼らなりの優れた方法で劣化させた産物に過ぎない…その程度でしかないと知らなければいけない…妙な幻想は捨てろ。そんな劣化物をいくら見ても、それ以上に目指すべき自然の多様性・精緻に近づくことは出来ない。真似るなら自然からであり、自然から学んで自分なりの劣化表現を示したい。
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 デューラーは「大運命神ネメシス」という作品を残している。その絵のネメシスはガラス玉の上に乗り、バランス(権衡)を支配する意味合いが込められたのでしょうか。手には測量で用いる道具なのでしょうか、よくわかりません。運命と権衡(もしくは統計)が関連してるのは面白い。一見、デタラメに見える振る舞いも統計処理すれば、秩序のある統計モデルに従っている場合がある。
 光子や電子の2スリット実験では、そうした量子を1個ずつ飛ばしても2つのスリットと干渉を引き起こす。電子1個のみの結果ではデタラメでスクリーンのどこに到着するか全く予測不能であるが、1000回、10000回と電子を1個1個飛ばしていくと、干渉模様を初めて認識できる。この結果、電子の波動性を"間接的・推論的・統計的"に認識でき、電子を"波"と考える"仮定"も妥当だと考えたのである(水の波紋は見たことがあるが、電子の波紋なんて誰も直接見た人はいない)。ただ、この波は電子1個の因果律について何も語る能力をそもそも有していないことは"仮定"の導入工程・動機を鑑みますと当然だといえる。その程度の"仮定"でしかなかったのに、その"仮定"を忘れてはいけない。運命・権衡の女神には、このような自然現象を擬人化した概念だと感じる。統計を支配する力がある。マクロの現象でも統計的挙動をする現象はいくらでもありますが、"べき乗則"はダイナミックな統計作用と感じる。全体として"べき乗則"に従うということは統計的に調べると認知できるが、個別の現象の規模・場所・時間の予測は全くできない。人間は大きな影響を与える位に連鎖反応が続いた事象に限って何かが起こったという認識をするが、そうした注目に値する事象が1回起こるためには、その背景として、人間にとって些細で無価値に近い事象が1000回、10000回、100000回と起こっている事実があるのである。卑近な例を挙げると、町で好きな人たった一人に出会うには、どうでもいいと思える2000人程度の人間と相互作用することなく通り過ぎているようなものである。人間が注目できる、正確には、認知できる事象は、電子1個の因果律のように全く予測できないということは多い。個に執着する性質のある人間にとって"統計"というのは無慈悲に感じる。
 彼女が愛し育みますのは、特定の一個人ではなく、全体としての生命・進化である。だから、特定の個人を"間引く"ような不公平な側面はいくらでもありうる。僕らが、ミカンの樹木を育てる際に、余分な枝を切り落とす適切な行為に似ている。彼女が束縛するのは集団の性質である。ミカンの枝一つ一つではない。人間は彼女の統御する統計モデルから脱することはできない。統計(=権衡)と運命というのは一見異なるようで、深く関連しているのだと感心する。運命というと、何もかも予め定められており古典物理の思想である"決定論"と考えるのが通常である。しかし、彼女が"権衡の女神"と呼ばれることを考えると確率統計の概念と結び付けたくなるのである。統計論的に運命を支配し、個人に全く執着していないというのは自己同一性のない量子と同じで、現代的な解釈だなぁと思いました。以上のような解釈は、かなり僕自身の歪んだ思い込みが入っているとも思いますが。権衡の女神は、色々な矛盾を相補的に取り込める器のようだ。

 ネメシスというのは、恐竜を滅ぼした流星群を地球に導いたどっかの(仮説上の?)恒星の名前にもなっています。最近、考えられていることは、果たして今まで滅びだ生命全体にとって、隕石のような天変地異によって死んだのは全体の何パーセントかということである。どうやら、そうした天変地異によって滅んだのは、全体から見てかなり少ないのではないか・・・という見解がある。隕石などのような必殺技を使用しなくても、"些細な変化"で全滅にまで追い込まれた種が大半なのではないかという考えです。
 地球の平均温度が一時的に0.1度上昇したとか、その程度の変化も十分に種を滅ぼす可能性がある。例えば、地球上に1000000種程度生きているとして、その"些細な変化"によって一種くらいは絶滅しても何ら不思議ではない・・・統計的には。その一種は色々な異なる種と食物連鎖のように連関しているだろう。だから、"些細な変化"を1000回行えば、1度くらいは生命全体を根絶やしにするような連鎖反応を引き起こしうる要となっている一種(特異点)を滅ぼしてしまう場合があるのではないか・・・ということです。だとすれば、十分な長い観測時間を設定した場合、人間が何かしらの悪事を全く働かずに行儀よく過ごしていたとしても、ごく自然に絶滅という現象が必然的に何回かは起きなければいけないことが推測される。もちろん、人間の生命活動が絶滅へと至る連鎖反応の乗数を高めているということは言うまでもありませんが。絶滅には必ずしも、隕石衝突などの激変は必要ないという考えは興味深い。カオスですね。そういう風な運命の定まり方とネメシスとを結び付けるには、"統計"という概念は必要になる。

被写体との距離感に関して思うところ↓
 見たものを正しく描くには、被写体に対してカメラを固定する必要があることは平凡な発想であり、十分受け入れられるだろう。絵描きが何かを資料なしで描こうとする場合にも空想上のカメラを固定するのだろうが、一つの絵を描き終わるまでの一部始終において、その空想上のカメラを常に固定することが果たして私にはできているだろうか・・・と考えると決してできていないと感じる。人の胴体は5メートル遠くからの見え方で描いているのに、頭部は30cmの距離からの見え方で描いている場合があるかもしれない。そういう距離感の調整を意識的に操作して行っているのならば当然よろしいのですが、大抵は自分が描きやすく、慣れているという理由で無意識に距離を変動させて描いている場合が多いのではないだろうか。この点の調整力をつけるにはどういった指標が必要なのかが問題です。当然、見え方を学ぶ上で模写は必要であろうし、学ぶ点はまだまだ無数にあるから、模写で人生終わるんじゃなかろうか・・・それでいいのかもしれん。北斎は晩年になってようやく少しばかり描けるようになったとか言ってた気がする。模写を行えば、距離に関してはほぼ一定になる。模写でない場合、固定カメラからの距離感を無視して、自分の数少ない慣れしたしんだ距離感を一点一点に適用しようとする妙で貧相な欲求を消してしまいたい。こういうのは自由ではなく、確かに自由感に過ぎないのだろう。自分が制御しきれない面が多々ある絵に対して、偶然出来栄えが良い絵だからといって、それを自分の能力だとは思うのは間違っている。

 あと極端に近接して人を描く場合があるだろうが、その場合、普通の人の視野では"足の先端から頭長"まで全て完全に一望することは不可能です。しかし、そういう束縛を無視すればこう見えるだろう・・・として描いた絵に対して僕らは果たしてそれが正しいとか良く見えるとかを判断できる感覚をそもそも培っているのかと考えると持っていないようなきがする。つまり、そういう風に見えるかもしれないが、通常そういう風に見る機会は皆無に近いから違和感があるとなる。そういう絵を描けることは望ましいのだろうが、違和感がないように視野を切り取る点に何かしらの方法論を展開するほうがよいのではないかと思うようになった。それを構図というのでしょうが。

十一面観音菩薩の彫像を見てて、腕の長さが常人より長いものがあった。それに習い、やや長くしている。
比率にすると、
観音:肩~肘:肘~手首:手=5:5:3
 人:肩~肘:肘~手首:手=5:4:3
ってな感じ。

蓮の花が開花しているのは、解脱した人(菩薩)の証。
蓮の花がつぼみなのは、解脱していない人の証。

左手に持っているのは石製の化粧パレットです!
輝安鉱をこすってアイライン用の顔料に使うんです!

一般に、構図といわれるのでしょうが、対象からどの位置で
見ている図なのか意識しないといけないな。
高さは地平線が目安になる。
距離に関しては、y=1/xで大きさが変化する。xは距離、yは対象の大きさ。
この絵は、果たして望遠で拡大して見ているのか?接近して見ているのか?
このあたりを定量的に扱えると強いな。

悟り人『このような苦行に・・・・意味は・・・あるのか?』

自分が経験的にたどり着いた結論とかがあるとして、古代の哲学者が同じような結論に達していることを書物で知ることがある。
自分と同じ結論とは言いすぎですが、まぁなんとなく、そうなんじゃないかと思っていたことが、確信に変わるといった感覚が得られるのです。
そんな時、まるで自分のための伝言なのではないかと勘違いをし、もっと早く知ってればよかったと思う。

3世紀の層序から出土した仏像らしいが、12世紀後のルネサンスに匹敵するくらいのディテールがある。

ブーグロー作品の模写。
模写ってほど、神経使っていないですが。
だから、雰囲気までは再現できてない。

個人的な変更点は、髪を長くして、羽を散らした。

この人の盤石な基礎力にあやかりたい。

こういう、アカデミックで面白みのないと言われる絵がいい。
ブーグローはこの絵を描く過程で恐らくだが、他の画家よりも体系化された法則を駆使していたと思われる。だから、優れていると感じる。
結果として現れる絵だけで判断していいのだろうか。

お久しぶりです。
今年もちょいなちょいな描いていきます。

スキャナーも調子悪くて、基本的に面倒なのでデジカメで
いいかなと思う。描いて更新することが目標でいいかな。


最近は足と服にこだわれるよう自己暗示してます・・・いや嘘です。
必要と思いながらできてません。

服のデザインとか考えてよっとか言われたとしましょう。
今の僕にはなーんも自分らしさを構築するために思い
浮かぶ基礎的な型がありません。

あと、何のために絵描いているの[絵でなくてもいいけど]とか聞かれたらどう返答する?
自分の思うように絵を描ける能力ができあがれば、死んだとき・・ああ幸せな人生だったなと思えるかい?僕はぜんぜん思えない。手段になりえても目的にはなんないだよな。
極端な質疑応答と思うかもしれないけど・・・気にしないでください。

ご無沙汰です。今月は絵を描くことより他のことに時間を費やした。
結果として絵については上達はない。非常に正しい結果である。

絵の描き始めから今までを振り返る。
昔は上手な絵を描くためにただ模写をして、満足感を得ていた。次に自力に描けないことに悩んだ。人には「模写はうまいよね」っていわれる感じである。なぜ自力で描けないか?それは描くもの自体を知らないからである[或いは、知った振りをしている]。したがって、自分は解剖図などで人の構造を暗記[=整理、圧縮]した。そうすれば比較的何もなくても自力で描け始めた。今では絵を描くとは構造を知ること、構造を覚えることと同義語になっている。模写で培った技術は、より正確な定規を作るための基盤となる技術として大いに役に立った。自然にそういった技術が培われたことは運が良かった。これからも色々なものの構造を描いていきたい。何を描いていないために、これが描けないという風に上達を機械的に感じれるようになったことは非常に良いことだと思う

でも作品も作って今の自分の限界を感じることも必要なんだろう。自分の場合、そういったことを感じると根本的に解決しようと考える性質なんで作品どころではなくなる。だから何か作品をコンスタントに出していける人間はすごい。そもそも目的が異なるということもあるんでしょうが、でも自分には真似できないし、しない。

前に目をつぶって描けるようになると冗談で言ったが、もしかしたらそれが出来ることが人が理想とする、絵を描く本質的なメカニズムと関係していると感じた。絵を描くのに視覚は補助的な役割しかしていないんじゃなかろうか。つまり視覚情報を遮断しても手が動くってこと。何を情報の根源として描いているんでしょうかってことです。
模写では100%視覚に頼るのが理想だが。

FF6のアルテマウェポン。初めて手を出したRPG。曲を聞いていると陵辱されている気分になるくらい素敵。

足は計6個あるけどあってるよな。ドット絵って難しんすかね。

ここでの絵を描くっていうのは、何か資料を見て参考にしつつ描くというのでは無く、資料無しで紙と鉛筆だけで描くっていう意味です。

絵描きのサイトで、人の描き方のようなものを紹介しているサイトがあった。たとえば、頭は卵型と考えて、骨盤はハート型と考えて描くといった具合であった。すなわち、より抽象化した記号に置き換える。そして必要な時に抽象から具体に導く作業と感じた。基本的に自分と同様な考えで絵を描いている気がした。
 その人は非常に正直なことを言っているでしょうし、自分のしている作業を客観的に説明し、嘘はなく、そういう風に他人に自分のしていることを説明できる人は素晴らしいと感じる。
 ただ気になったのは、その非常に客観的で偽りの無い説明を鵜呑みにしても描けんだろう。本当に必要なことは、自分で記号化することである。そういった記号は人に与えられるものでは無いということだと思った。
 同じ記号でも、人によって見出される情報量は異なる。特に人が説明に用いている記号はその人がその人の描き易いように試行錯誤して形成したものであるから他人にその記号を教えても扱えるはずがない。完全にオーダーメイドと感じる。
 だから真にしなければならないことは、そのサイトの人のように、自分なりに記号化して紹介する過程を経ることである。結果よりもその人が至った過程を真似た方が良い。 
御久しぶり。最近よく「大丈夫?休んだほうがいいよ。」って言われます。そんなに不健康に見られるのかと心配。

それはさておき、今回の収穫した良いキーフレーズを三つ!

『語れないものを語ろうしてはいけない』
『検証性』
『段階があるんだよ』

どれも絵の話ではないところからの言葉であるが、逆にそういったところにいなければ意識できない言葉。絵と何か少なくとももうひとつの分野に自分の居場所があることで相互に発展し合うから片方に没頭することは自分としては危険と考える。自分の姿勢としては自分がこれからぶつかる全ての分野に自分の絵を発展させる布石が存在していると思って行動するべし。



『語れないものを語ろうとしてはいけない』⇔『描けないものを描こうとしてはいけない』
→賛否両論ありそうな感じだが、気に入っている。
だったらどうやって新しいものを描けるようにするんだって思うよね。



『絵における検証性』
→自分は絵が上達することよりも、どのようにして人が絵を上達するのかといった過程が知りたい。自分は実験体。自分だけに当てはまると限定されていては、一般性が無く、後の人の役に立たない。「俺がこうしたら何か知らんが上手に描けるんだ!文句あるか!」ではダメなんだ。だから自分は絵に対して検証性を伴いたい。
そのためには説明が必要なので言語化は必要。だからあえて絵を描くという活動と相反しそうな言語化にこだわる。筋肉の名前とか覚える必要はないという人もいますし。でも友達と議論する際には互いにわかっていたほうが便利ですな。

あと気になったことは、本当に偉人という人は、文系であれ理系であれ自分の行動に関してかなり論理的であると感じた。全体として論理で縛って部分部分で見ると感覚的に鋭い〔勘が働く〕というのが良いのかも知れません。



『段階があるんだよ』
→段階を飛ばして先に進んでも良い結果は得られないという当たり前のこと。数学でいえば、加減乗割もできないのにいきなり微積といった感じでしょうか。そういう行動は頭がオーバーヒートします。
自分としては、まず人の裸が描けないのに服に手を出すのは極力控えてますし、描けないものを描かないという考えに従えば、体が余裕で描けて、次の段階で服を描こうと思っても、決して想像で服を描こうとしないでしょう。


自分は自分という単語をかなり使っているなあ。理由としては一般的にするのが恐ろしいからだけど。

注意)ここに書かれることは正しいことかどうかまだわかりません。
目的①自分の考えを整理する場
目的②あまり会えない友人と会った際にすぐに話に持ち込めるようにする
目的③・・・・
とりあえず一段落した。

エジプトで手と足くらいは思ったままに描けるくらいの練習はしときたい。末端から中枢に描いたことは少ないからそれができるようにする。
余裕ですよきっと。知らないからできないだけで知れば万人ができると信じたい。つまり、知ろうと実行する人間と知る価値に気がつかない人間の差ですよ・・・たぶん。




やっほう!まじで大変!まじひぎぃ!


人を描くことについて思ったこと
 腕に関しては、折れ線があればそこから比較的自由に発展していけるようになった〔もちろん完全ではないが〕。折れ線が中間で折れてなくて、片方に寄っていれば、それだけ腕か二の腕〔逆でもいい〕が、奥か手前にあるということだ。すなわちパースを掛けることになる。

 このようにどのような部分で折れ曲がっていても三次元的に何の不都合なく処理できる。自由に発展とは、単純に筋肉の始点終点を繋いでいくだけだ。そこで抑揚を持たせれば色々な体質の腕が完成する。この段階に来るまでに不可欠なのは、骨と筋肉の正確かつ詳細な知識。また折れ線から発展していけるということは、つまり腕の構造を単純な図形〔折れ線〕に圧縮〔置換〕したことになる。圧縮が便利であることはパースとの親和性にもある。複雑な図形より簡易な図形の方がパースを捉えやすい。パースの教本でも説明するのに立方体などを用いるのが普通ですし。ちなみに自分はその折れ線を描く場合は、上腕骨の裏側のラインと尺骨の背側として描くことにしている。最も安定しているからだと思う。とう骨は回転に影響するので後から考えればいいと思う。でも手も線で表せて〔少なくとも方向は感じる曲率〕そこから展開できるようになれば、おそらくとう骨の情報は全て手の向きに集約でき、とう骨というよりは長回外筋の始点終点で事足りると予想するが。


腕に関してできるのならば、同様に他の部位関してもできるにちがいない。ということで勉強中。腕の圧縮体に手も加えるのも忘れずにって感じ。


問題:肩を含めた上半身を一度に描こうとするとうまくいかん。
これが一度に描けるってことは初めから描くポーズが決まってると思う。そんなの決まっていないで描こうとするから線が定まらないと思った。だったら絶対に変化のない部位と部位の距離を正しく自分で置ける能力がほしい。それで始点終点合わせればうまく見えるような調節する力も。

複雑な構造〔可動部位を含む〕は分解して個としての美意識を持ったほうが良さそう。だるまを美しいとか正しいとか思うかって感じでしょうか?


人の肩、胸板、首のあたりは描く際に結構抵抗がある。肩の可動は背中から首の前まであるし、首下周りの奥行きとか幅なんて中々感じづらい。人を上から見る機会なんてあまりないからかもしれないけど。

なんかいい対策はないかと考えると、基本的にはやっぱ分解して考えることか。つまり肩甲骨と鎖骨を取り外して肋骨とか脊髄のみで正しいと感じられたほうがいい気がする。全の美は個の美からってことでしょうか。



自分で一から描くのもいいと思うが方向が決まってくる。
やっぱり何かしらの資料に対して自分の今持てる知識ではそれをどう描くかとした方がゴールも見えてるし、当分はそれで十分成長する気がした。

足とかまともにやってないからシルエットぐらいしか感じない。

決してパースありきで描いたわけではなく、描いた絵に後付け的にパースを意識しているようにした。将来的にはパース前提として絵を書き上げられるようになりたいが。

人に関しては早く前駆体のような分化前の像を作りたい。必要最低限の知識だけ抽出するというか。完成絵に持っていくのに必要な知識を減らしていくというか。男にしても女にしてもムキムキにしてもムチムチにしてもブヨブヨにしてもヨボヨボにしても、いずれでも人ならば分化していける像のようなもの。これが完成すれば(完成は一生ないと思うが)もっと他の分野にも使っていけるんですが。前駆体をより単純にするためにはより高度な描写過程が必要になる気がする。自分は圧縮と呼んでいますが。棒人間とかあるけどそこから安定して完成絵に導けるのは特にアニメーションとかいちいち完成に持っていってられないようなのに必要な気がします。

で月日が経ってそういった前駆体を仮に10個こしらえたとしよう。今度はその前駆体を一つ一つ分化したものとしてさらに高度な二次前駆体ができれば面白そうだ。

絵を描く目的はこれかも知れない。高度に圧縮された前駆体の獲得(確立)!

文学的にいえば圧縮に相当するものは四字熟語、ことわざ、格言に相当するのか。

絵画でなんでこんな線のような人の絵が云千万するのかと思うけどそういった絵って有名な画家の前駆体の絵なのかもしれない。無限に分化可能な高度に圧縮のかかった。日頃、完成絵しか見ていない素人にはそれが下手に見えるのかもしれないが。

パソコンの液晶が調子悪い。液晶の内部の裏のバックライトが壊れたか。表からスタンドライト当てて何とか見えるが困りもんだ。暗がりじゃ作業できない。ひぎぃだよひぎぃ。休止モードってレベルで無いよ。

よし!決めた!今日は朝早く無駄に学校行く。

ファイバードいいなぁ。ジェット合体グランッッバアアァアアアド!
勇者シリーズでは今は流行らないのか?低年齢層だから大人には飽きる展開だからか。かといってリアルにシリアスにして・・・勇気と友情で合体?はぁ?って感じだよ。合体しか見てない自分にストーリー云々言っても意味ないけど。蒸気・火花・雷鳴・重金属音いいよね!

本命はマイトガインですw。


頭とか顔の構造は比較的描くし容易な部類だからあまり論理的に解釈していない。今の自分にとってそこそこ描けるが、必殺技にはならない的な高くも無ければ低くも無い微妙な平衡なんです。この平衡を必殺技に近づける必要がある。つまり求められる方向から描くことを要求された場合機械的に描ける方法・過程を持たなければならない。すなわち、さらに大量の情報を得た上で描写工程の見直しをする必要がある。ここのあたりを明確にしとくと首の発生位置とか髪の立体感・分割法・発生位置にもより良い方法が浮かんでくると思う。
よって課題として頭蓋骨の模写しとけってことだと思う。あと顔面の筋肉もか。

落書き。ゼロの二期とダブルOを主に。

現状は絵描く暇があったら以下略ってかんじだけど。
最近ふと考えたこと。

お題:描写について
なにげなく絵を描くが意図・目的によって分類してみようと思った。
①基礎的描写
⇒デッサン・模写等。触媒の高性能化。自分を殺すことこそ重要。道具としてのデッサン力を磨く。

②知識補充整理的描写。(①から発展・依存)
⇒外からの知識の補充と整理。個性の源。素材を新鮮に仕入れる。知識自体が力。

③立体構造建設過程開発的描写
⇒工夫を凝らす場。パースと知識の融合、知識の抽出、洗練的忘却、圧縮化(ダイジェスト)。

④落書き的描写
⇒無意識化、手癖化、問題提起。

⑤創造的描写
⇒作品。オリジナリティー。

一言に絵を描くといっても意図が異なる自分を知る。

今の自分に圧倒的に必要なのは②。②をしてれば①も同時にしてる気がするが。

③はまだまだよく全体が見えていないが・・ただ、知識によって絵を描く描き方(例えば人の組み立て方)というのは変化する。知識が多い場から発生する組み立て方の方がより良いものになるのは当然。②の知識に大きく依存。

④は何も考えずに手癖で描く場合。④は作業の効率化上結果的に必要な描写だとは感じるが、それ以上に④ばかりやって絵がうまくならないという人が多そう。知識の飽和点があるような気がする。それ以上は今持っている知識では発展しようがないという点。

⑤はあんまやってない。今の自分に求めてないというか。今の貧相な自分から搾り出した作品に価値を見出せない気がする。作品を作るのが目的として描き始めたならまた違った意見なのかも。
この段階に知識の選択という点で個性が発揮されるもので、①の段階での個性の発揮は自分の求める結果につながらない。
知識そのものが力らしいです。個性はその素材となる知識をいかにうまく選択、合成、素早く調理(②~④の過程)していけるかということだ。①の段階での個性は素材を腐らせる。だから①では個性を殺す必要がある。模写という言葉はそのまんまだが。

割と絵でしていることを料理を作る過程に例えると新しい考えや納得が得られる。いろいろな分野に当てはめて考えよう。

この世にハンター×ハンターのような念というものが存在している世界ならば常に「錬」していると思う自分だが、残念ながらそんな世に生まれなかった。でも知識を増やすことはこれに似たような感じになる。知識を練ねり上げた分だけ力が増す。時間に比例・積分的に知識を増やしていける人間同士が勝負したら先輩に勝てないのは当然の結果だが、ある分野に個性を見出して、知識を積めばその分野くらいなら勝てる。「年の功」というのは負のイメージがあるけどなんだかそう言われるのは個人的に良い感じもしてくる。すごいのはそういった絵を描ける人間ではなくて知識なんですよ。知識は人間を選びませんから。それをあたかも選ばれた人間のみの成せる業のように見えるのはいい感じがしない。すごいのはお前じゃなくて知識なんだって!という価値観が広がった世界になってほしい。

以上。

落書き程度なら描けるが、②は一度に集中してするほうが自分のスタイルだからなかなかまとまった時間が無い今は難しい。多分10月からまた再開できそう。くそぅ!人体の知識であの人に負けちゃう!人体以外にも意識的に増やさねば。


 江ノ島と鎌倉に行ってきました。最近買ったデジカメでいつか使うであろう背景を撮ろうと思っていてあまり仲間の写真は撮っていません。

 江ノ島では江ノ島と水族館に行きました。イルカは実際見るとかなり巨大で恐ろしかった。

 鎌倉では鶴岡八幡宮・寿福寺・佐助稲荷神社・銭洗弁財天 宇賀福神社・大仏とか周った。鎌倉の山は岩でできている印象を受けた。あとシダ植物がてんこ盛りでした。いろんな文化的建造物の周辺で絵を描いている人を見かけました。

写真は鎌倉の鶴岡八幡宮の舞殿・大銀杏・大石段・本宮が見える。ここのオミクジは簡単には大吉はでないぜ!

メカの首どうしよう?わけわかんねえ。

ストライクフリーダムのライトニングエディションを購入したが、デティールが甘そうだ。無駄な線画量でいいから区分けして全体的に線を多めにして欲しい。とはいうもののルージュもまだ作ってないが・・・。


ううーん!なんとしてもデジカメ欲しい!




今回は大腿筋膜張筋の隆起が気になる図を描いた。


腕が結構混乱してしまう。でも理由は分かってる。基本形である回外位の状態の伸筋・屈筋の収束点を容易に引き出せるほど覚えていないからだ。筋肉は骨にくっついているので骨が回転すればもちろん収束するポイントも回転する。ということは骨の位置も把握する必要がでてくる。回内位も覚えてしまえばもっと楽なんでしょうけど。
何にせよ、これが解決するのも時間の問題。
いわゆるライフドロウイングというやつをこれから継続してやらなければ速い成長はしない。


赤鉛筆を使ってみた。

自分の中で次第に腕にかけるメモリのようなものが下がっていっているのが実感として沸いてきました。この調子でもっと下げていくぜ!

先日購入した本に自分と同じ考え方が冒頭に書いてあった。本から教えてもらうことはいくらでもあるが、今回は本から確信を得ることができたのでうれしい限りでした。

普通の人物画の微妙な線から筋肉を逆算した。
腰周りは自分の中でかなりグレーなのでいろいろな角度で腰を描いていこうと思った。


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ごんきゅう(権窮・GONQ)
性別:
男性
自己紹介:
連絡:gokujoh-anmitsu★mail.goo.ne.jp
★⇒@

趣味
・寝ること
・デッサン会
・異分野の本物の人間に会いたい
・真理編纂活動
⇒私の確信・直観の正当性を歴史の焔に焼べる。燃え残った"鉄塊"を我が真善美・規矩とする・・・そういった孤独な火遊びって意味。

確信・直観の裏付けのための書籍。即ち、焚き木。
■ 美の本体
(岸田劉生)
■ 自分の中に毒を持て
(岡本太郎)
■ 人間の建設
(小林秀雄、岡潔)
■ 人生の鍛錬 小林秀雄の言葉
(新潮社 編)
■ 現代語訳 学問のすすめ
(福澤諭吉、訳:斉藤孝)
■ 努力論
(斉藤兆史)
■ 努力論
(幸田露伴)
■ 機動戦士ガンダムthe ORIGIN
(安彦良和)
■ 創造への飛躍
(湯川秀樹)
■ 行動学入門
(三島由紀夫)
■ こころの処方箋
(河合隼雄)
■ ニーチェ入門
(竹田青嗣)
■ 大衆の反逆
(オルテガ)
■ ゲーテとの対話
(エッカーマン)
■ 人間とは何か
(M.トウェイン)
■ 思考の整理学
(外山滋比古)
■ 文芸批判論
(T.S.エリオット)
■ 歴史とは何か
(E.H.カー)
■ 幸福論
(V.ラッセル)
■ 共感する女脳、システム化する男脳
(サイモン・バロン=コーエン)
■ 人間性の心理学
(宮城音弥)
他、少々。

絵のための参考書
★ プロメテウス解剖学アトラス
(坂井建雄、松村譲兒)
★ やさしい美術解剖図
(J.シェパード)
★ やさしい人物画
(A・ルーミス)
★ 漫画の教科書シリーズNo.3リアルなキャラクターを描くためのデッサン講座
(西澤 晋)
★ The Art of Drawing
(Willy Pogany)
★ ANATOMY AND DRAWING
(Victor Perard)
★ デッサン学入門~創意の源泉を探る~
(南城 守)
他、少々。
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