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"対象の見た目上の大きさ"と"距離"について纏めた。

(1) 人間の視野角(画角)
水平方向:200度
垂直方向:125度
見えるのは比較的広範囲だが、実際に意識的に認識している視野はもっと狭い。
色々説はありますが、標準レンズの25~50度程度の見え方が映画のようなスクリーンで
見た場合、違和感が少なく、通常見ているような感覚の画角らしい。

(2) モノの大きさは距離に反比例
 異なる大きさの物体が複数あれば、それぞれの見た目上の大きさは、関数y=±a/xに従って振舞う。
aはそれぞれの物体の固有の大きさ。y:見た目上の大きさ。x:対象との距離。
 同じ大きさの物体2個が近くにある場合、広角レンズを覗くことになるが、グラフからも"見た目上の大きさ"が距離の差に敏感なのがわかる。
 逆に、遠くにある場合、望遠レンズで覗くことになるが、グラフからも"見た目上の大きさ"が距離の差に鈍感なのがわかる。また、密に重なって見え始める。

(3) レンズと視野角(画角)の対応

超広角(魚眼)レンズ:100度以上
広角レンズ:50度~100度
標準レンズ:25度~50度
弱望遠レンズ:15度~25度
中望遠レンズ:8度~15度
大望遠レンズ:0度~8度

一つの目安として、1度の画角の作り方について以下に述べる。
・1メートルの棒が1度に見えるのは、目から57メートル離れている時である。
・1キロメートルの棒が1度に見えるのは、目から57キロメートル離れている時である。
つまり、物体を1度の角度に収めるには、物体の大きさを凡そ60倍した距離まで離せばいい。

ちなみに、
・満月のお月様の幅をちょうど覆う画角は、約0.5度である。
・腕を前に伸ばして人差し指を立てる(眼~指の先端=約60cm)と、その指の先端の幅(約1cm)に対応する画角は約1度である。
 よって、伸ばした手の指の先端と満月の月とでは、指が月をスッポリ覆う計算になる。
脳の錯覚の影響もあるが、月は思ったよりも視野角を僅かに満たすだけ・・・月は思っているより大きくない。月がきれいで写真をとったら思ったより小さい印象を受ける場合があるが、標準レンズの視野角を25度としたら、月は横に並べると50個入る計算になる。
 黒い点を集中してみると、視野一杯に黒い点が覆うようになるが、意識の集中によってこういう感覚はいくらでもずれるらしい。

 レンズは視野角を決めるが、視野角だけでは距離は不定である。焦点について考えないと、距離が対応しない。
絵を描く上で、視野角が8度(レンズ的には、中~大望遠レンズ)と設定しても大きく二つの見え方がある。
・広角レンズを用いた場合、視野角は50度以上と大きいが、必要な8度だけ切り取る時の見え方。
・望遠レンズを用いた場合、視野角は設定した角度と同程度なので切り取る必要がなく、そのまま未加工での見え方。
 対象間の大きさ・重なりの圧縮、設定する消失点の位置が根本的に異なるようだ。もうちょい考え足りない。
したいことは、例えば170cmの男性と150cmの女性が150メートル離れて道路の脇に突っ立ている時に望遠レンズを用いた時の見え方と、10m離れている時に標準レンズを用いた時の見え方を書き分けろって時に、念頭に置くべきことが出揃っていない感がある。望遠レンズで近くのものはぼやけて見えない・・・がこの辺の見通しが悪い。保留。

参考文献:『三角形の魔術(たのしい幾何学Ⅰ)』(ペレルマン著、1962年、みすず書房)


 "アイライン"(=水平線、地平線、カメラの高さ)と"奥行きの圧縮"(=重畳、重複)を最初に設定することで、初めて線を正しく引くことが出来る…もっと言えば、線を引く許可が下りる…そんな感じ。その二つを設定せずして筆を走らせることは本来はできない。ただ、普通は感性とか慣れとか、そういうものに頼り曖昧なままでもそれなりに見えるように描けるのだが…、機械じみた迷いのない精密高速描画は不可能だろう。"奥行きの圧縮"というのは、モノの重なりのことである。"大きさの圧縮"と"奥行きの圧縮"は反比例的関係になる。望遠レンズでは、奥行きの圧縮が強く、大きさの圧縮が弱い。広角レンズでは、奥行きの圧縮が弱く、大きさの圧縮が強い。奥行きの圧縮が弱いほど、対象の立体感を生じるような描き方ができないといけない…つまり、構造を知れということだ。構造を正しく知るには模写が道具として機能できると便利。
 アイラインが定まれば、ある消失点に収束する線束(つまり消失線)とアイラインとの角度も一定となる。広角レンズから望遠レンズに切り替えても、この消失線とアイラインのなす角度は一定であるはずであり、この角度が変化したら、アイライン(カメラ)の高さが変化したということだ。もちろん、視野角が通常の狭さ(0点透視図法や1点透視図法=弱望遠~望遠レンズでの見え方)においての話である。2点、3点透視図法以上に関してはこの限りではないが、そんな見え方を多用するのは常態ではない。
 0点透視図法といったが、これは画面から遥かにはみ出た所に、消失点がある場合を想定している。望遠レンズで見て、狭い領域を切り取った見え方なのですが、そういう見え方を採用することを"0点近似"と呼びたい。"0点近似"で描く場合、消失線から消失点の位置を推定しようにも平行すぎて不明瞭になりますが、逆に言えば、少々消失点の位置がずれようが無視できるということだ。だから開き直って消失点などは考えない。こういう見え方が、望遠レンズではよくあるし、利用する姿勢であるべきだ。

 黒澤 明の「赤ひげ」(1965年)では、望遠レンズからの撮影が多い。数十~数百メートル遠方から被写体を拡大して見た時、ある狭い領域を切り取った画面である。その画面内の被写体を含む"背景"は、非常に狭い領域だけが写ることになる。これにより、意図通りに"背景"より"被写体"に注目できるようになる。これは広角カメラ(接近して撮影した時の見え方)との顕著な違いの一つである。この望遠レンズ特有の絵は、意識的に見極めていかなければいけない。可能ならば、いわゆる"奥行きの圧縮"の程度から、カメラと被写体の距離を感覚的に割り出せればしめたものだ。
 アイラインは、カメラの高さ(z)だけを定義するので、残りのある平面内の座標(r,θ)はまだ自由である。この座標の内、片方のrが決まれば距離が定まり、この距離に対応した"奥行きの圧縮"となる。

参考文献
『マンガの教科書シリーズNo.3 リアルなキャラクターを描くためのデッサン講座』 (著者 西澤 晋,2009年)
⇒実際の見え方や絵作りに関する、パースとカメラの観点からの考察・知見が載っています。僕の知る限り、そういった絵作りに言及した本は他にないのではないかと思う。


 造型用に作って放置していたブログ「天変綱目」の更新をしました。こちらは当初の目的を変更して、映画の紹介をしていく予定です。映画の解説では、"正しい"ことなんて述べようとする気はさらさらないし、できない。反感を買おうとも自分が思ったことを偏見交えて書くだけ・・・それしか、できる道理がないだろう。目的は正しい評価をすることなんかじゃなく、構図や演出などの"引き出し"を豊かにするためです。この"引き出し"を作る作業は、年齢を経てもやり尽きることはないだろうな。誰よりも美しく整備したい。
 僕にとっては、引き出しを作るっていうのは単に自分の力を"外部"から流入させるという意味以外に、優れた過去ものを、未来に"引き継ぐ"という観点からも望ましいものと受け取っている。その時代、その時代、常にそうだったように現代も優れた過去のものを知らずして頭ごなしに「つまらない」と置き去りにし、特筆した裏付けも無く自分の内部の可能性にのみ注力しようとする。そういう人間には最もなってはいけないと思うし、そういう人間の生き方に対して私は憎む傾向すらある。こういう点に憎悪を覚えるようになれてよかったと思う。

 今までは、絵に関して"内部"の情報のみから構築できるように尽力してきたが、これからは"外部"の引き出しを整備する。目的に適った"外部"の優れた情報が、一体どこにあったのかを要領よく引き出せるようになりたい。そういった状態を可能にならしめる練習方法を習慣化できればと思う。"外部"の優れた情報を探さなくてはいけない。

 映画を見てその構成を考えることは、絵を道具と化するには良い段階だと感じる。絵は描けて当然であり、次の段階、つまり、どう見せるか、どのように展開するかに焦点を移す。とはいっても、実写ですので、着物や髪型などの知らない情報の模写もせざるをえなくなるので画力も鍛えられる。以前は、マンガの模写でもいいと思っていたが、どんな偉大な漫画家が描いた絵であっても、そういうものは彼らが"自然"から得た情報を彼らなりの優れた方法で劣化させた産物に過ぎない…その程度でしかないと知らなければいけない…妙な幻想は捨てろ。そんな劣化物をいくら見ても、それ以上に目指すべき自然の多様性・精緻に近づくことは出来ない。真似るなら自然からであり、自然から学んで自分なりの劣化表現を示したい。

 古典力学的には粒子の持つ全エネルギーは、運動エネルギーと位置エネルギーの和である。この見方で人間の成長を考えると、位置エネルギーを意識的に高めようとすることが重要である。おそらく、誰かが"努力している"という場合、その多くは運動エネルギーに関してである。
 位置エネルギーとは、環境・境遇が無理やりにでも私どもから引き出したエネルギーである。だから、位置エネルギーを制御するとは、纏う環境(場)を意識的に制御するということになるのだろう。しかし、環境を変化させれば大抵初めはうまく適応できないため、弱い立場ならではの不安と不快な思いを改めて味わうことになる。だから、運動エネルギーのみに注力することで、ますます十分に適応できるようになる現在の環境の中に居り続けることで、最強を気取りつつ、こんなものでは私の心は満ち足りないと周囲に不満を洩らすようになる。
 海水魚を淡水にぶち込むようなもの、淡水魚を陸に上げる様なものなので、確かに慣れるまでは不愉快である。どの程度の"不愉快さ"かといえば、程度を誤れば死んでしまうくらいである。毒の盛り方、つまり、場の制御は慎重に、大胆にするのが良い。
 心理学での幸福の定義は、自分が今いる環境に自分が適応できていることを実感している状態・・・だとされる。だとすれば、進化・成長とはあえて不幸になる道を選ぶこととも言えそうだ。

 最近は、小津安二郎の「晩春(1949年)」を見る機会がありました。構図を考える良い機会になります。ひとつひとつのカットを見ていくと、画面上での人物の配置がなぜこのようにしたのかを考えてしまいます。明確な答えは見つかりませんが、そのささいな変化が確かに見る人の印象を変えるのだということはわかる。その配置と印象の相関関係を炙りだして(パターン化する)、小津らしさというものを浮き彫りにしていきたい。

 デューラーは「大運命神ネメシス」という作品を残している。その絵のネメシスはガラス玉の上に乗り、バランス(権衡)を支配する意味合いが込められたのでしょうか。手には測量で用いる道具なのでしょうか、よくわかりません。運命と権衡(もしくは統計)が関連してるのは面白い。一見、デタラメに見える振る舞いも統計処理すれば、秩序のある統計モデルに従っている場合がある。
 光子や電子の2スリット実験では、そうした量子を1個ずつ飛ばしても2つのスリットと干渉を引き起こす。電子1個のみの結果ではデタラメでスクリーンのどこに到着するか全く予測不能であるが、1000回、10000回と電子を1個1個飛ばしていくと、干渉模様を初めて認識できる。この結果、電子の波動性を"間接的・推論的・統計的"に認識でき、電子を"波"と考える"仮定"も妥当だと考えたのである(水の波紋は見たことがあるが、電子の波紋なんて誰も直接見た人はいない)。ただ、この波は電子1個の因果律について何も語る能力をそもそも有していないことは"仮定"の導入工程・動機を鑑みますと当然だといえる。その程度の"仮定"でしかなかったのに、その"仮定"を忘れてはいけない。運命・権衡の女神には、このような自然現象を擬人化した概念だと感じる。統計を支配する力がある。マクロの現象でも統計的挙動をする現象はいくらでもありますが、"べき乗則"はダイナミックな統計作用と感じる。全体として"べき乗則"に従うということは統計的に調べると認知できるが、個別の現象の規模・場所・時間の予測は全くできない。人間は大きな影響を与える位に連鎖反応が続いた事象に限って何かが起こったという認識をするが、そうした注目に値する事象が1回起こるためには、その背景として、人間にとって些細で無価値に近い事象が1000回、10000回、100000回と起こっている事実があるのである。卑近な例を挙げると、町で好きな人たった一人に出会うには、どうでもいいと思える2000人程度の人間と相互作用することなく通り過ぎているようなものである。人間が注目できる、正確には、認知できる事象は、電子1個の因果律のように全く予測できないということは多い。個に執着する性質のある人間にとって"統計"というのは無慈悲に感じる。
 彼女が愛し育みますのは、特定の一個人ではなく、全体としての生命・進化である。だから、特定の個人を"間引く"ような不公平な側面はいくらでもありうる。僕らが、ミカンの樹木を育てる際に、余分な枝を切り落とす適切な行為に似ている。彼女が束縛するのは集団の性質である。ミカンの枝一つ一つではない。人間は彼女の統御する統計モデルから脱することはできない。統計(=権衡)と運命というのは一見異なるようで、深く関連しているのだと感心する。運命というと、何もかも予め定められており古典物理の思想である"決定論"と考えるのが通常である。しかし、彼女が"権衡の女神"と呼ばれることを考えると確率統計の概念と結び付けたくなるのである。統計論的に運命を支配し、個人に全く執着していないというのは自己同一性のない量子と同じで、現代的な解釈だなぁと思いました。以上のような解釈は、かなり僕自身の歪んだ思い込みが入っているとも思いますが。権衡の女神は、色々な矛盾を相補的に取り込める器のようだ。

 ネメシスというのは、恐竜を滅ぼした流星群を地球に導いたどっかの(仮説上の?)恒星の名前にもなっています。最近、考えられていることは、果たして今まで滅びだ生命全体にとって、隕石のような天変地異によって死んだのは全体の何パーセントかということである。どうやら、そうした天変地異によって滅んだのは、全体から見てかなり少ないのではないか・・・という見解がある。隕石などのような必殺技を使用しなくても、"些細な変化"で全滅にまで追い込まれた種が大半なのではないかという考えです。
 地球の平均温度が一時的に0.1度上昇したとか、その程度の変化も十分に種を滅ぼす可能性がある。例えば、地球上に1000000種程度生きているとして、その"些細な変化"によって一種くらいは絶滅しても何ら不思議ではない・・・統計的には。その一種は色々な異なる種と食物連鎖のように連関しているだろう。だから、"些細な変化"を1000回行えば、1度くらいは生命全体を根絶やしにするような連鎖反応を引き起こしうる要となっている一種(特異点)を滅ぼしてしまう場合があるのではないか・・・ということです。だとすれば、十分な長い観測時間を設定した場合、人間が何かしらの悪事を全く働かずに行儀よく過ごしていたとしても、ごく自然に絶滅という現象が必然的に何回かは起きなければいけないことが推測される。もちろん、人間の生命活動が絶滅へと至る連鎖反応の乗数を高めているということは言うまでもありませんが。絶滅には必ずしも、隕石衝突などの激変は必要ないという考えは興味深い。カオスですね。そういう風な運命の定まり方とネメシスとを結び付けるには、"統計"という概念は必要になる。

被写体との距離感に関して思うところ↓
 見たものを正しく描くには、被写体に対してカメラを固定する必要があることは平凡な発想であり、十分受け入れられるだろう。絵描きが何かを資料なしで描こうとする場合にも空想上のカメラを固定するのだろうが、一つの絵を描き終わるまでの一部始終において、その空想上のカメラを常に固定することが果たして私にはできているだろうか・・・と考えると決してできていないと感じる。人の胴体は5メートル遠くからの見え方で描いているのに、頭部は30cmの距離からの見え方で描いている場合があるかもしれない。そういう距離感の調整を意識的に操作して行っているのならば当然よろしいのですが、大抵は自分が描きやすく、慣れているという理由で無意識に距離を変動させて描いている場合が多いのではないだろうか。この点の調整力をつけるにはどういった指標が必要なのかが問題です。当然、見え方を学ぶ上で模写は必要であろうし、学ぶ点はまだまだ無数にあるから、模写で人生終わるんじゃなかろうか・・・それでいいのかもしれん。北斎は晩年になってようやく少しばかり描けるようになったとか言ってた気がする。模写を行えば、距離に関してはほぼ一定になる。模写でない場合、固定カメラからの距離感を無視して、自分の数少ない慣れしたしんだ距離感を一点一点に適用しようとする妙で貧相な欲求を消してしまいたい。こういうのは自由ではなく、確かに自由感に過ぎないのだろう。自分が制御しきれない面が多々ある絵に対して、偶然出来栄えが良い絵だからといって、それを自分の能力だとは思うのは間違っている。

 あと極端に近接して人を描く場合があるだろうが、その場合、普通の人の視野では"足の先端から頭長"まで全て完全に一望することは不可能です。しかし、そういう束縛を無視すればこう見えるだろう・・・として描いた絵に対して僕らは果たしてそれが正しいとか良く見えるとかを判断できる感覚をそもそも培っているのかと考えると持っていないようなきがする。つまり、そういう風に見えるかもしれないが、通常そういう風に見る機会は皆無に近いから違和感があるとなる。そういう絵を描けることは望ましいのだろうが、違和感がないように視野を切り取る点に何かしらの方法論を展開するほうがよいのではないかと思うようになった。それを構図というのでしょうが。

最近は、脳科学に夢中ですね。
 焦点はやはり、"自由意志の有無"ですね。結論から言えば、"自由意志"はない。あるのは、"自由否定"らしい。確かに、殺意が湧くのは僕の意志に関係なく生じるけど、それを行動に移すかどうかを選択する猶予は僕にありますね。もちろん、その猶予を忘れるくらいに憤慨したりすれば、"魔がさした"という事態になるのでしょう。脳の神経回路の"ゆらぎ"が意思の端緒となるので、つまり、何かしようという思考がいつどこで生じるかの予測は、短期的にはまったく融通のきく類ではない乱雑な自然現象なのかと思う。
 僕は「人間とは何か(著マーク・トウェイン)」に触れ、当時の決定論的風潮は嫌いじゃないので、物理法則に縛られないと感じる人間の自由意志を神聖視・特別扱いせず、水面の波紋が広がる一連の無我の現象と同じ感覚で捉えたいと思ってきました。仏教では"諸法無我"というのでしょうか。夏目漱石の晩年の思想"則天去私"では、もっと修身的意味合いが強いが、そこにはやはり、自分というものを消し去り、天の普遍法則に従えと薦めてるようだ。
 人間や動物も含め例外なく味気なく通底している物理現象(諸法)に、人間は世界を彩るように好き勝手に解釈し、その解釈が正しいと信じて疑わない。解釈するためには指標となる"モノサシ"があるわけで、その"モノサシ"は普通に生きているだけでは大して精密かつ柔軟になるはずがないのであるが、どういうわけかその"狂ったモノサシ"から得られる出力結果に疑問を抱くことは本能に抗うかのように許し難く、場合よっては実質以上の自信を持ってしまう。"権理"は"権利"に変化してしまったが、"理を権る力"を養うというのは大変な努力が必要だ。"権理"の方が個人的には好ましい。
 人間の"自由意志"の生起の実態は、物理的な神経内の電気的ゆらぎを端緒とし、ニューロンの層が幾重にも重なって、いずれ秩序だった、方向性のある思考が形成される。膨大な量は組み合わせ次第で、時として質を一変させる。故 宮城音弥氏は、自由と感じるのは幻想であり、私たちは本当の自由ではなく、行動に「自由感」を伴っているにすぎないと記していた。心理学的な実験も多々行われているようだが、脳は自分の言動に対して不本意・誤りだったとしても、自分が自分の意思でそれを望んで行ったのだ・・・と後出し的に、記憶・感情を修正し、内部矛盾が起こらないように補正する。これは、脳の特性らしい。ささいな無意識的な虚偽は日常茶飯事であり、むしろ自然な働きともいえる。奴隷が二人いて、その奴隷互いには自分を繋ぐ鎖の立派さで優劣を競い合うようになるという・・・これも自分を安定に保つために必要な虚偽の一つではないか。
 そうした自然に脳が求める虚偽を真っ向から否定するようですが、"非才をかこつな"っていい表現ですね。今まで僕が複雑にこねくり回して表現していたことが、スパッと言い表された感覚。こういうことを既に言っている人がいるんだよね。"非才をかこつな"は、いくら努力しても自分のように才能のない人間には限界があると考えている人に対して、非才を言い訳にして努力を怠るなってことです。ニーチェの超人思想も同様だろう。神がある限り、人間は生きることの困難さを神に丸投げしてしまう。どんなに生きづらい人生であっても、外部の絶対者に頼ることなく、自らの確立した意思でもって行動する。安易な逃げ道は須らく封鎖すべきであり、全ての行いの結果を自身に帰責させられるように漏れなく因果関係を掌握する。それが超人だという。時代的には1900年プランクの量子仮説以前の古典物理決定論全盛期に生きた人だから、やはり因果関係は決定論的に解釈できるという思想はどぎつく定礎となっているように感じる。超人は皆それぞれ脳内に"ラプラスの悪魔"を飼えってことかもしれない。

 超人思想は心理的な拷問器具のようなもので、絶えられる資質のある人には良薬だろうが、大抵は感情的に嫌われてしまうのが普通だろう。超人思想のモノサシで他者の行いを喝破することは、心理的だとはいえ、耐える覚悟のない他者に拷問器具を強制装着させるに等しく、これは超人同士でなければ成り立たない行為だと思われる。超人思想は男性的な発想だ。

幸田露伴の「努力論」より一節。
 「天才という言葉は、ややもすると努力に拠らずして得たる智識才能を指差すが如く解釈されているのが、世俗の常になっている。が、それは皮相の見たるをまぬかれない。いわゆる天才なるものは、その系統上における先人の努力の堆積がしからめした結果と見るのが至当である。」
 "至当である"って"極めて当然であり、適切であること"っていう意味だけど、使う言葉にしても洗練されている感がある。達する見解は皆同じなようだ。

人間の建設(岡 潔、小林秀雄)より。

 紹介したい部分は広い範囲に渡っています。対話形式ということもあり、やや長い前置きを経た上で要点が散在しているので、部分的な抄録では文脈の理解が難しいと思います。理解し難いと思いますが以下、若干の注釈をした上で紹介します。 

(本文、省略させていただきます!!)

ここで僕一人ではなかなか勇気と確信がなくて主張できないが、可能ならば言い切ってやりたい発言がありました。一部、列挙すると、


「今の芸術家は嫌な絵を押し切って描いて、他の人には描けないといって威張っている。」
→個性や独創性は確かに大事だが、評価に値しない(普遍性がなく、共感を生まない)あぶくのような個性を主張しているということだろう。

小林
「今の絵描きは自分を主張して、物を描くことをしないから、それが不愉快なんだな。物を描かなくなって、自分の考えたこととか自分の勝手な夢を描くようになった。」
→自分の想像だけでなく、実際にモノを目で見てデッサンしろってことだろう。大衆が思っている以上に、人間個人が独自に思い描く内容の99%は、自然が表現するものよりも相当つまらないものだという認識が自分にはあるし、そのスタンスで今のところ文句はない。


「この松の枝ぶりが良いとかいけないとかいう見方は、思い上がったことなのです。」
→僕が望む絵描きは、被写体がどのようなものでも絵になり、被写体を選り好みすることはない。上文では、選り好みしなければ絵にならないという絵描きの態度は、思い上がったことだと言っています。選り好みしなければならないのは、、被写体に責任があるのではなく、絵描き自身の未熟さに原因があるということだろう。
 「絵になる=それらしく見える」のであり、「美」とはまた違ったニュアンスなのだと思います。
以上の3つです。

 僕の立場からすれば、絵を描くときに悩むことなんてなくていいんです。目の前の被写体をよく見てありのままに描けばいいのです。描けないもの(知らないもの)を無理やり描こうとするから、想定外の現実とは掛け離れたものができあがる。
 僕は知らないことを極力描こうとはしない。なぜなら、描けなくて当然だからだ。ここで悩む人がいるが、描けないことは必然的な帰結ですので、知らないものを描けないと悩むことはないのです。むしろ、描けないことは、知っていないということになります。

 僕に描ける絵は、描けるレベルで知っている範囲のものであるか、もしくは、知らないが完全に模写を行う場合だけである。全く新しいものを描けるように見える場合があるが、それは既知情報の複雑な組み合わせで必ず説明されるべきであり、鑑賞者はその情報の組み合わせを容易に解体できないから「無からの創造」という安易な解釈に、自分の及ばぬ知性の慰めを行う。「組み合わせの妙」とは、それだけ多彩深奥だと思われる。なお、自分はルーベンスと同様に、引いた線に対する起源や意図には説明責任を持つべきという気構えである。だから、人の意図を極力消したり、偶然性を全面的に利用する絵描き(そういうのを認める部分もあるが、説明責任まで放棄されると困る)や、小我に捕らわれた絵描きの意見とは相性が悪いだろう。しかし、あくまで僕の信念に沿わないという個人的見解に過ぎず、世間一般には認められるべきだろうと思うし、そういうやり方でないと生まれないものもあるでしょうね。

 新しいものを描ける様になる為に、模写は知識の入力の役割を果たす。絵を文章と例えるならば、模写の精度が優れることは、単語の意味を辞書できちんと毎回正確に引くことに対応する。模写ができなければ、意味のある文章は作ることはできない。「模写の意義」とはここにあると確信を持ったのは、絵を描き始めて3~4年目だった。ちなみに、この上達の工程は絵に限ったことではないと思う。上達の基本構造だと敷衍したい。

 知人の画家によれば、模写は出来て当たり前であり、半年やれば誰でもできると言っていた。この時、自分の唱える方針が、あまりに当たり前に受け入れられたことにやや驚き、自信が持てた。一方で、模写ができない人が多い(出来ないといっても程度は人によって違いますが)。
 模写をしない人はそもそもできる能力がないのではなく、模写の意義を軽視しているか、全く知らない人だと思う。模写の意義を知り、なお模写の技術を高めようとしないならば、それは僕とは求める終着駅が違うのだろう。そうならば、お互い比べあうということに意味がないのかもしれない。「飢える」対象が自分とは違うのだと割り切るしかない。

 僕が絵を描くときに悩むポイントは、模写で得た正しい情報をどのように秩序立てるかなのであり、何度も消したり描いたりして、その場限りの、あてずっぽうに、視覚的に、正しい線を探そうとすることではない。ただし、あてずっぽうに何度も消したり描いたりする段階が成長の段階で一度もないというこはないだろう。まずはそうやって森を見ずに、一枚の葉っぱだけに固執するような段階はあるのだと思います。そうやって、いずれ、顔という一つの木、腕という一つの木をストレートに描け始め、ひとつひとつの木をどのように描けるようになったかを反省すれば、おのずと自分の方法論が確立されてくるのだなと思う。
 ちなみに、この情報の秩序化(=有機的な結びつき、系統化)という過程が、文章で例えたところの文法に対応する。この文法を作る作業にこそ相当考えなければならない。私の思う絵描きの独創性とは、描いた結果としての絵(絵柄)にあるのではなく、絵を描く文法をどのような知識を用いて、いかに構築したかに掛かっていると思う。僕は今このことを思いつきで言ったけど、実際、自分の執着する部分(自分が飢える対象)はこの説明通りだろう。薄々気がついていたことだが、このブログで考えを文章化することで自然と湧き出た結論だ。この結論の導出も、おそらく「組み合わせの妙」だろう。絵描きの独創性と一般化して言ってしまったが、正確には自分は成長の現段階で、最もこの点に飢えを感じると言った方がよいだろう。
 デューラーの「絵画論」では、描く方法にどれだけ彼が思索・飢餓していたか伺える。ああいうのを知れば、彼が求めていた価値基準というものは結果としての絵だけを見ても読み取れるのは難しいのだと思う。仮に読み取れるならば、その人は既に素人ではなく熟練者である。デューラーからすれば、結果としての絵自体よりも、形がなく抽象的な方法を第一目的で求めていたのだと感じる。結果としての絵は、より高尚な目的のための一つの実験結果に過ぎないといえるのかもしれません。より高尚な目的には、小我に捕らわれない普遍性があった。
 デューラーの文章には、当時、少数の本物といえる巨匠がそれぞれ持っていた方法論を彼らが秘していたことや、ギリシャ時代・イスラーム時代の巨匠が書き記した有り難い著書が「知識を愛さず憎む人間」によって失われてしまったことに、若干の苛立ちを感じさせることが多々あるのである。彼の意見には非常に共感できますし、そういった意志を僕は引き継ぎたいと思うのである。スタドラ的に言えば、やりたいこととやるべきことが一致したのである。

 英語の文法が厳密に定まっているように、絵の描き方にしても曖昧でいいわけがないのです。市販されている絵の教本には、どんな構図・ポーズであっても、同じ文法に沿って常に書くべきだ、そういう練習をせよと明示されていた。 
 世の中の絵描きには、絵の文法が未発達の人間と絵の文法を持っている人間とがあるだろう。自分なりの文法(方法論)の確立の有無が、絵描きの実力(=問題意識)を推し量る重要な要素であり、プロとアマチュアの分水嶺だろう。 
 プロとはどんな要求に対しても、ある一定以上のクオリティを機械的に、時間に比例して生み出せる方法論を持っている人間のことだと思う。そういう方法論を成熟させずに、〆切などを守れる安定した実力は実現しないと思う。

 自分の行ってきた方法が、自分の予定通りかといえば、全然そうではなく、がむしゃらにやっていたら何となく辿り着いていたといった感じだ。今になって成長の軌跡を分かりやすく話そうとしても、一つ一つの概念(圧縮化、模写の意義など)の説明はそこそこできるだろうが、どのように組み合わされて発展してきたかを時間軸に沿って記述することは難しい。いずれも並列していたような気がする。つまり、自分の境地を第三者に実現させることは難しそうだ。何より僕の成長の仕方は、万人が共感するには癖がある僕特有の「飢え」が選び取ってきた道なのだから、仮説的には結論をシミュレートできても、僕と同様の「飢え」がない人からすれば、ひどく苦痛な道だと感じ、作業を受付けないでしょう。逆に、僕には乏しい「飢え」が、ある人には狂おしいほどあって、その人特有の成長を促すのかもしれません。それは僕には真似できない。真似できないというか、真似しようとする意欲がわかない。僕にできることは僕に似ている少数の方々のために、僕というある種の飢え・癖のある試験体が、どのような刺激を求め、どのような応答をしたのかを明示して、大勢のなかの一例となることが精一杯なのかもしれない。
 提示しようとする方法論は、もちろん共感・普遍性を兼ね備えていることを望むが、その方法論を指示通りに完遂可能かどうかは各自の「飢え」によるのである。つまり、受け入れればできるが、受け入れないからからできない・・・そういう方法論となるでしょう。「飢え」は、生来的な要因・環境・境遇などそれこそ全く同じ条件を与えられた人はこの世に二つといません。だから、「飢え」の種類に良い悪いはないし、「飢え」は各自異なったほうがきっと面白い。
 上達の秘訣は、自分の「飢え」を正しく判断して(に素直になり)、満たすように習練することになる。私が確立したい方法論は、方法論を受付けるか受付けないかを左右する「飢え」にまで配慮されてはいないと思う。「飢え」まで作るとなると、それはその人の性格を根本から変えるという位大変な作業だろう。そういうのは、小中高学校の教諭など教育者が長い時間、手間かけてする仕事だろうね。だから、僕と同じ「飢え」を持ちえた人にA→Bという人の主観によらない運命論的な方法を提示できればよいのかなぁと思う。僕にしても、ゲーテ、デューラーなど、自分と親和しやすいと思う人の考えを受け継いでいるわけであり、そのような人生の師匠、自分が目指したいと思える人をまず探せっというような、既に多くの人が使い古した人生論的教訓となってしまう。
 極論かもしれないが面白い意見があります。「今生きている人間から習うことは一つもない、死んだ人間からのみ習え」という意見です。人は死んでからようやく、歴史から忘れさられていい些細な存在か、それとも、忘れてはいけない伝えていくべき存在かの正当な判断が客観的に下されます。だから、今生きている多くの人間は正当に評価できない主観に捕らわれたノイズの多い実験データなのであり、そこから本物のみの抽出は難しい、宝くじのようなものだ。しかし、時間の風化に晒された歴史から学ぶことは、ノイズの少ない実験データであり、本質のみを享受しやすいというのである。多くの年老いた成功者は、自伝や自分の考えを述べて書籍にすれば売れる世の中のようだが、多くの場合、既に語り尽くされた金言が自分の人生にも当てはまり、良い一例となりましたよっという報告書である。今の成功者が「論語」から学んだというのなら、次の世代の人も「論語」から学べばよいのであるが、今の社会は「論語」よりも「今生きている成功者の論語の劣化版」が手に入りやすい環境である。本が売れないというだけで「真理もあるが、生きている故に嘘や虚栄も含むつまらない新書」に「正統的古典」が排斥される現状では、不幸な思考を持たざるを得ない人間の増加に少なからず寄与している。成功者が小我に捕らわれて闇雲に自分を神格化して振舞えば、まだ力を得ていない若い人間は力強く成長できなくなると思うのです。
 「悪貨は良貨を駆逐する」に習えば、「悪書は良書を駆逐する」と言える。なぜ、悪貨や悪書が蔓延するのだろう。自分に甘く、駄目な自分を満足させてくれるから・・・だろうか。危機感・使命感・目的意識・静かな怒りを息吹かずに生きている人間が多く、当事者意識が薄れているから・・・だろうか。既に今は優劣を正当に判断する能力を失いはじめている可能性もある。本来、悪書か良書かを判断する際にお金は関係ないのだが、そこにお金が勘定されている。売れる見込みがなければ作れないことと、人間は過去よりも今に興味がある(実際、普通の生活では過去は間接的にしか見えない)という事実は、「何が真に価値のあるものかを判断する指標」を人から奪うには十分な条件である。一方、科学は普遍性・検証が大事なので、過去も現在も未来も比較的関係ないと思われる。だから、今、何かしらかの教本や評論書が販売されても、科学的裏付け、歴史的考察まで言及していれば、それはいつの時代にも通用するので価値があると言えるのである。言い換えると、小我から離れた内容ほど優れており、通用する、目指すべき境地なのかもしれません。『人間の建設』では、「自我が強くなければ個性は出せない、個性の働きを持たなければ芸術品はつくれない、と考えて色々やっていることは、今、日本も世界もそうです。いい絵がだんだん描けなくなっている原因の一つと思います。」と書かれており、小我に捕らわれることを勧めてはいない。今まで、私は「自分を捨てろ」と言ってきたが、また一つ、その文献的論拠が得られたことは喜ばしい。この確信がとにかく欲しくて本を読む。

 僕は最近、「才能」という表現の代わりに、「飢え」という表現を是非使いたいと思うようになった。「飢え」という表現は、三島由紀夫や北野武が使っていたからだろうけど、「才能がない」のと「飢えがない」というのでは、後者の方が僕の言いたいことがより正しく反映されていると思ったのです。そもそも「才能」って何だよって思っていたし。
 「飢え」って言うと、生来的な要因以外に、自分では中々自由の効かない環境・境遇にも依存しており、時価的傾向を伴うことが良いのです。「飢え」は、満たされる場合もあれば、満たされない場合もあり、変化あるものだ。
 「才能」は、生まれた瞬間に価値が固定されている感じなので、これはやはり現実の様相とは異なる。環境的要素を重要視している自分としては「才能」より「飢え」の方が好感が持てるのです。
 
 「才能」という言葉は、おそらく、問題にしている分野で「才能がない人達」が意思疎通のために考え出したのではないかと思います(十分な論拠は全くございませんが・・・)。才能のある人は、才能という表現を使う前に、もっと親切に分かり易い表現を使い、伝えようと努力するし、できるのだと思うのです。しかし、実際、その分野の知見に乏しい人に十分に伝えることは難しいだろう。才能のある人の、可能な限り噛み砕いた親切な説明でも伝わらなかった人が、なんとかその偉業を第三者に説明しようとしたら、「才能」とかいった曖昧な表現が便利なのだと思います。

 
 以前言ってた、直線の角度とカメラの位置の関係を示す。
直線は奥に行くほど、消失点(消点)に収束していく。錯視に当たるかどうか不明だが、見た感覚よりは角度が小さい場合が多い。角度が60度かなと思って、手を水平にかざしてみると、あれっ!?45度だってことも多い。実際に、aとxを確認すると、確かに同じ程度の距離だったりする。
 この部分に関しては感性よりも知性を優先したほうが今の段階ではいいのかもしれません。理解した上で感性に任せると、理性が補完するようなりそういう状態がよい。
 わざわざ描いて感性で捉えなくても、頭の中で角度とカメラの三次元的位置の対応が可能となる点が便利。
 僕が、淡々と無味乾燥なレシピ通りに描いた絵、つまり、視聴者にこういう風に受け取って欲しいなんて思索を働かすことがなかったとしても、描いた本人である僕以上に見る人が『想像力を誘発させる(感応させる)』ような技法(レシピ)があれば、それは絵を操作しているといえるのかもしれません。もちろん、全面的にその方法が最高に素晴らしく、目指すべきものと主張する気はありません。

 あと、余りにも自分に接近した部分の直線はもちろん歪みます。ただ、角度に関して、望遠と近接の区別は常識的な範囲(普段、自然に見える程度)でならば必要ないようだ。望遠と近接は圧縮率に依存する。

 図書館で、射影幾何学の本借りた。複比が説明されてた。

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『複比と消失線に基づく車載単眼障害物検出(画像認識、コンピュータビジョン)』(2004年)
っていう論文があった。発想は今まで考えていたのと類似しているから一見の価値がありそう。
圧縮率は、反比例、Y=x^(-1)だと思う。冪(べき)関数Y=a^xかと思ったが、冪関数では容易にフィットできない。
単純に、同じ大きさの物体が、2倍離れれば、1/2の大きさに見えるというのがどうやら実験的にも正しい。
圧縮率をY=x^(a)として、aを任意の実数とすれば、圧縮率を制御できる。基本的にはa=-1。

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 圧縮率は、実測値から反比例に確定した。
また、自分の向いた方向の前後2つの消失点を結ぶ、消失線に対して、その収束する比率(圧縮率)の一般式を考える。この時、私の主観を根拠に選択するならば、コーシー分布(ローレンツ関数)の確率密度関数が数理モデルとして有用と感じた。このモデルの当てはめには正当な理屈はない。裾野の減衰も緩やかで見た目が似ていたから使ったというのが本当のところ。
 コーシー分布を試してみると、現実とのフィッティングに微妙な面がある。そもそも反比例を完全には表現できない。裾野とピーク付近のいずれかを犠牲にしてしまう。ただ、一旦、現実の再現とは割り切って、コーシー分布に従う圧縮率を考えるのはありなのかなと思う。でも、その定量性を感覚的に描写しきる自信はないが。
 まずは、肉眼による現実を再現しようと思う。

 反比例だと、自分の目に非常に接近した時は、関数的には無限大を与える。しかし、実際には、対象が最接近したとき十分に離れていれば有限の長さに見えるはずである。つまり、遠方では反比例の挙動を示すが、近づくにつれ、反比例的挙動が弱まり、最接近した時にはある有限の最大値となる。このことから、消失線の水平線に対する角度の変化を丁寧に調べる必要がある。
 今までは、ある平面上のキャンバスを考えてきたが、自身の眼を中心とする、半径固定の球面キャンバスを内から描くと考えたほうが良いかもしれない。半径をどうするのかという問題もあるけど。平面キャンバスだと描ける範囲が限られるし、周囲の空間の歪みの程度がわかりにくい。

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 反比例xy=a、あるいは、x2-y2=aが、圧縮率の挙動として先ず思い浮かぶ表現である。
これらは、媒介変数t=iθによって、双曲線関数(sinh, cosh, tanh)として表現される。
三角関数(円関数)的挙動を示す双曲線関数は、オイラーの公式(eix=cos x+i sin x)を通して(マクローリン展開したものを比較してもいい)、冪関数exとしても表現できる。

↓ここは、以後洗練させていきます(工事中の日記)。

「歴史とは何か」(E.H.カー 著、清水幾太郎 訳)より抄録

 19世紀は大変な事実尊重の時代でありました。『辛い世の中(ディケンズの作品)』の主人公グラドグラインド氏は次のように申しました。「私が欲しいのは事実です。・・・・・・人生で必要なのは事実だけです。」19世紀の歴史家たちは概して彼と同じ意見だったのです。

 サー・ジョージ・クラークですら、歴史における「事実という堅い芯」と「それを包む疑わしい解釈という果肉」とを自分で対照させているのですが、きっと、果物は果肉の部分の方が堅い芯よりも有難いものだということを忘れているのでしょう。先ず、汝の事実を確実に手に入れよ、次に、無二無三、解釈という流れ動く砂漠に突進せよ―これが歴史における経験的な常識的な学派の最後の言葉であります。
→歴史における事実と解釈を、果物における芯(種)と果肉にアナラジーしているのは、上手な解釈だと感じた。事実のみでは皆を喜ばせるには弱いが、事実をどう解釈するかで皆は食いつくかどうか決まる。しかし、解釈を生み出す起源は堅固な事実なのであって、解釈から解釈を生み出すことは、いずれかの段階で腐り始め、誰も見向きもしなくなる。
 良い解釈を生むためには、面白い解釈ばかりに気をとられることはできない。無味乾燥かもしれない事実を集め、自分の庭に蒔くことに時間をかける必要があると思われる。歴史と果物のこのアナラジーは、これまで見てきた中でかなり上手い部類に当たる気がする。

 「正確は義務であって、美徳ではない」というハウスマン(1859-1935、英、古典学者)の言葉を思い出します。正確であるといって歴史家を賞讃するのは、よく乾燥した木材を工事に用いたとか、うまく交ぜたコンクリートを用いたとかいって建築家を賞讃するようなものであります。

 トルストイは『戦争と平和』の中でアダム・スミスに倣って次のように書きました。「人間は意識的には自分のために生きながら、人類の歴史的な普遍的な目的を達成するための無意識の道具になっている。」
 バターフィールド教授によれば、「歴史的事件というものには、誰一人欲していなかった方向へ歴史のコースを捻じ曲げるような性質がある。」
 ロッジは次のように書いた。「彼は参戦するつもりはない。しかし、事件に押し流されてしまうと思う。」「人間の意図による説明」や行為者自らが語る動機の説明を基礎にして、つまり、行為者がなぜ「彼ら自身の気持ちからして、このような行為をしたのか」を基礎にして歴史を書くことが出来ると考えるのは、一切の事実を無視することです。
→以下、「歴史は「べき乗則」で動く」(マーク・ブキャナン著、水谷 淳 訳)も踏まえる。
 歴史はどうやら、決定論的思考により説明することはできないらしい(つまり、経験知によって未来を予測する式が得られない)。個人個人の思惑の単なる積み重ね以上の何か不思議な力が働いているというのが皆が思っているところである。統計論的思考であるならば、歴史(革命、戦争、暴落、地震、山火事、巨大隕石衝突、種の絶滅など)の予測不能な出来事は数学的なべき乗則によって表現はできる。ある種の絶滅を保護することは大切であるが、その一方で、これまで歴史では、生命の99.99%は絶滅しているのだ。それも、巨大隕石衝突によって絶滅したのは全体のほんの一部であって、ほとんどの種がそれほど驚くべきことでない原因によって絶滅する可能性を秘めた不安定(臨界状態)な存在なのだ。隕石という仰々しい理由がなければ絶滅は起こらないと思うのはどうやら間違いらしい。

 べき乗則は、個人の詳細な情報を設定することを必要としない。どんなに個人個人がそれなりの意思で行動したとしても、この法則は堅く守られるようだ。正しいかどうかわからないが、一つ例を挙げる。100人のうち、20人が優秀ならば残りの80人は怠けるようになる。優秀な20人を集めると、その中から怠け者がまたある一定の割合で生じるらしい。この比率を知るためには、個人個人の情報はそれほど厳密に知る必要はない。

 ガウス分布が、なぜあのような関数として表現され、ピークを上手くフィットできるかを説明できる人はいるだろうか。私も十分できるわけではないが、ガウス分布、べき乗則、フラクタルなどは関連していると感じる。
 天変地異的な大規模な現象を引き起こせる状態を臨界状態と呼び、森を全て焼き尽くた山火事に対して、森林はそのような大火災を引き起こせる臨界状態であり、原子爆弾の原料となるウラン235が炸裂するための最低質量も臨界状態である。そこは、つまり、有機的なネットワーク・連関が緻密に育った状態である。臨界状態では、ある十分に長い時間で考えれば大地震というものは必然的に、誰も気にしない小さな地震と同じ原因でもって起こりうる。
 歴史家は第一次世界大戦の原因を、テロリストによるどこぞの皇子の暗殺だとした。しかし、大戦の規模に関しては、なぜその程度になったのかを説明できていない。場合によっては、もっと小さな規模(ヨーロッパだけとか)で済んでよいはずであるし、歴史家ならば大戦への発展を未然に防ぐ知恵を提案して欲しいものである。べき乗則によれば、世界情勢が大規模な戦争が起き得る臨界状態であったからだと説明される。情報化社会、グローバル化に比例して臨界状態はより敏感となったといえる。互いに相互作用しあうネットワークという構造そのものが、臨界状態を作りうるなら、脳内のニューロンネットワークは、アイディアを生み出す臨界状態に常にあると考えられる。アイディアは苦労して生み出すというよりは、必要十分なネットワークが組まれさえすれば自然にふと湧き出るものだ。苦労したと思っている人も、最後のパーツを偶然手に入れるまで「待つ」ことが苦労したのであって、アイディア・発想そのものは、まるで突然降ってくるようなものだ。これは大地震や株価の大暴落と同じようなシステムであり、小さな出来事が起きるシステムと全く違う特別な原理により引き起こされたものではないと説明される。

 統計論でいうとことの臨界状態の極限を考えると、決定論はその領域では成立する。爆弾に火をつければ爆発するという決定論的工程を実現しうる爆弾は、極限臨界状態まで組織化されていたといえる。
 統計論の臨界状態とは、確率的に大規模な変化を引き起こす可能性がある状態をいう。
 大地震など僕達の次元(スケール)で注目に値する特異的な変化の原因と、僕達が注目に値しない無数に発生している小さな地震の原因は、同じとされる。大地震に特別な原因は必要ではない。
 問題は、そのような取るに足らない原因を出発点として、どの規模まで発展するのかが確率的にしかわからないということ。同じ原因でありながら、地震の規模が決定できないため、日本は過去100年地震の研究をしても未だに決定論的に扱えない(予知できない)。
 臨界状態のさらに上を、超臨界状態といい、べき乗則には従っていると思われ、臨界が進むほど僕達の次元でいうところの大規模な変化の起きる確率は増えている。極限的な臨界状態となると、確率が100%に近くなり、原因→確率→結果という3工程のうち、確率が抜け落ち、原因と結果が1対1対応する。
 起きてしまうと、たいてい臨界状態を生み出していた組織(ネットワーク)そのものが壊れてしまうため(例えば核爆弾の連鎖反応)、不可逆的な挙動を示すようになる。



昨日、ジュンク堂で洋書買った。
「Diffuse X-Ray Scattering and Models of Disorder」というタイトル。高かったぞ! だけど、この本は愛せる気がする。

 巷に溢れている英語の学習書に対して、私が興味を湧く気質であれば凄く楽なんだが。私はそういう風にはできていないようでして・・・。こういう一見面倒な攻め方のほうが、どうやら身につくし、自分は耐えられると経験的に感じる。内容自体に興味があるものでないと読む気力が起きないからだ。英語が達者に出来ればなりたいが、どうやら心からそうとは思っていないようで行動に移らなかったが、いよいよ必要ですね。
 良い文章を見つけ、覚えようと思う。良い英文(自分が使う可能性の高い表現)の編纂活動となるわけです。英論文を書こうと思っても求められる文章が浮かんでこないんだよね。当然だけど。
 自分で英文を作ろうとしてはいけない・・・とよく言われる。なぜなら、作った文章は大抵間違っているからだ。作るより正しいものをまず覚えろと言われる。よくよく考えると、日本語の文章も自分であたかも作っているような感覚を受けるが、実は作っていないのかもしれない。典型文のような最低限覚えるべき文章を様々に組み合わせているに過ぎないのだと思う。
 あるアニメーターは言う。雪崩のシーンを描くことに迫られた場合、そのようなシーンのある映画を数本即座に挙げられるようでないとけいないという。こういう意見は、他者に正しく建設的な努力の方向性を示してくれるから助かる。
 ある漫画家は言う。自分が欲しいシーンは一体既存のどの漫画にあったかすぐに思い浮かぶと。検索能力が桁違いだ。
 自分で一から作るのは大変だが、一から作ったものが優れているという保証はない。むしろ、既存のものを多く知っており、その中から最善を検索し、それを参考にして自分なりにアレンジした方が大抵出来栄えはよい。

 話は空間整合性に移る。自分の目の高さは約160cmであるが、この時、地面を這う直線(道路と思えばいい)が自分から160cm離れている場合、その直線を紙面上に書くとどのような角度になるだろう。答えは45度。単純なタンジェント関数になるようだ。この知見は重要だ。なぜなら、絵を描くときに感性に任せて45度の傾きの線を引いたとしても、それは自分(カメラ)から見てどの程度離れた直線なのか言えるからだ。少なくとも、線を引く時に建設的な思考が伴っているだけでも進歩はあるだろう。
 直線と同じ方向を向いた時・・・、目(カメラ)の高さをa(cm)、直線と自分の最短距離をx(cm)、その直線を紙面上(キャンバス上)に描く際の傾きをθ(度)とすれば、以下のような関係式が得られそうだ。
   x=a・tan(90°-θ)
⇔x=a/tanθ
⇔tanθ=a/x
分かりやすいθ=22.5°(→x=2.412a)、30°(→x=1.732a)、45°(→x=a)、60°(→x=0.577a)、67.5°(→x=0.414a)だけでも感覚と理論を繋ぎ合わせたほうがいいと思う。θ=22.5°とθ=67.5°は関係がありそうだ。
tan(22.5°)-tan(67.5°)=2だからな。
一応これで、空間の収束方向に関しては制御できる。あともう一つは空間の圧縮率に関する知見。この二つを結びつければよさそう。今すっごい適当言っている。
 当然のように立式したが、たった4点(x=50cm, 100cm, 150cm, 600cm)から回帰式を作ってて測定も超適当だったから、実際には幾何学的に証明する必要があると思う。
 ということを考えていて、ふと思ったのはこれって測量学とかで既に基本的なことではないかということだ。ジュンク堂の測量の本棚に行ったんだが、行列計算、統計学を結構多用していたが、吟味する暇なく閉館だったな。次はもうちょい吟味しておきたい。しかし、ジュンク堂は今年の2月から23時まで営業するようになったのは嬉しい限りだ。

 線分を2等分するのは簡単だ。しかし、3等分の場合はやや苦痛である。
でも円弧を3等分するのは僅かながら楽である。なら、角度を3等分するのはどうかというと線分の3等分より楽な気がする。そこで私が思ったのは、線分の3等分は厳しいが、角度を感じる円弧なら3等分がしやすいのではないかと。こう思うのは私だけか・・・。

 そういえば、決定論に対して統計論というらしい。統計論は今ホットな分野です。
決定論は、実験系をより単純化(平衡状態=時間に関係しない系、変数を減らした系)して、法則を炙りだそうとする。ゲーテがこれに対して不快感を示したのは、当時の物理学者が人工的に作り出した単純な系は、もはや自然そのものなのではなかったからだ。自然に対して何も加工しない非平衡状態をそのまま捉える方が真実だと感じたからだと思う。とはいっても、単純化した系を作ることは優れた方法論だったわけだ。ゲーテが望んだ科学は統計論にあるのではないかと私は最近思うようになった。統計論は、地震の時期と規模、バブル崩壊の時期、歴史における革命や戦争、生物の絶滅時期と規模まで議論される。仮に決定論でこれらを攻めると、ラプラスの悪魔ですらきっと、数理モデルと変数の設定、寄与率の配分に窮することだろう・・・と思ったがこれは人間の発想・・・多分、この悪魔の総合力なら苦でないだろう。ラプラスデーモンが個の総合から全を導く(決定論的思考)なら、その逆、全体的傾向から個の挙動を導く(統計論的思考)存在が空想上いてもいいでしょう。人間にとっては、いずれの方法でも未来の予測は不可能だろうが。これらを両輪として使用する時代が来たら、それは次世代のパラダイムシフトにあたる気がする。

「科学は物事を説明しようとはしない。解釈さえもめったにしない。大抵はモデルを作るだけだ。(by ノイマン)」
こういうのを聞くと、今知っている法則式は、最も実験結果を説明できる単純な数式モデルに当てはめただけであって、自然そのものを表現したわけではないと感じる。でも、モデルを作れるような知識や技術は欲しいな。

「ヨーロッパの芸術文化全体を集大成して自己のものにする(by ルーベンス)」
「個人を超えた普遍的表現を信じている(by ルーベンス)」
「偶然的なものの排除と確実なものの選択である(by ルーベンス)」
ルーベンスは、絵描きというより科学者的な発言が多いようです。

 既存の知識を集大成して自己のものにする・・・とは、端的に言えば「編纂活動」なのであり、これはどの分野においても通用する姿勢なのだと思う。人の物を本当に我が物とすることでしか偉大な物は創出されない・・・とゲーテは言うが、ルーベンスと同意見となる。既知情報を効率的に取り入れるためには、絵を描くのと同じくらい本を読めってことになるのだ。今、私が持っているものだけでは足りない。
 大抵の場合、自分が発見したことなんてものは、過去の誰かが既に発見しているわけである。
 「真理は発見されて既に久しい(by ゲーテ)」
 「天が下に新しいものなし(by 旧約聖書)」
と遥か昔から幾らでもこの手の箴言は何度も語られている。何度も語られるのは、人間がそれを忘れやすいからだ。誰もが陥りやすい環境・境遇であればあるほど、誰でもそれについて皆と同じように知っている。そうであるならば、これからどういったものが新しくありうるのだろうか・・・。おそらく今の時代に、未来永劫、普遍的に役に立つ新しい創造(=天才的創造)をするには、既知情報をひたすら掻き集める編纂活動を通して、物事を総合的に判断できる境地にならなければ成し遂げられない。例えるなら、地上から宇宙まで上昇して、初めて地球が球であることが確かめられるような知見。普遍的な既知情報を100個集めた時に、初めて見えてくる一つの知見。一つの巨大な建築物を建てるかのように、過去現代未来の何世代もの人間が脈々とリレーのように代わる代わる協力し合い、いつ出来るかわからない究極を信じてコツコツと自分の役目を果たし死んでいく。私が世界を感じるときは、そういった昔から続いているイベントに新参者として協力しているときではなかろうか。系譜意識とはいい言葉だと思う。
 11個の世界を漏れなく見渡せる十一面観音様や、無限の変数を編み込んだ回帰式モデルを即興導出し、統御されるラプラスの悪魔は、正当な総合的判断が可能な憧れの存在であり、未来予知も朝飯前なのである。未来予知という表現は相変わらず人間の視点である。
 トルストイが歴史に求めたものは、雄々しく儚い物語なのではなく、歴史はどうあがいても今のようにしかなりえなかったという確信だろう。すなわち、歴史を知ることは広義的に「運命の法則」の検証だといえる。自分にもこの欲求は多分にある。僕が自発的に歴史を学ぶならば「運命の法則」の検証という大きな目的がなければおそらくたいして感興は生じない。歴史を自ら学ぶような珍しい人の中には、単に物語性を楽しむ人もいるのかもしれない。しかし、多くは何かしら問題意識がまずあって、それを解明したり、検証するために学ぶ人の方が多いのだと思う・・・。でなければ、まず本の選定基準すら持ち合わせておらず長続きするのか疑わしい。歴史を学ぶ本人は、そんな仰々しいものではなく、単に調べ物をしていると言うかもしれないですが・・・。
 未来予知という抗えば予定変更できる可能性がありそうな動的現象として捉えるのではなく、惑星の公転などの凝り固まった静的現象だと捉えるのが決定論的思想だと思われる。
 ゲーテは、既に知られていても素晴らしいものなら表現しても文句を言われる筋合いはない的なことを言っているので、既知情報がつまらないというわけではない。というのも、普遍的なものはいつの時代でも語る価値があり、人々が絶えず入れ替わる以上飽きられなからだ。そういえば、気象予報とかで使われるカオス理論って決定論らしい・・・。だから、本当に何もかがデタラメなカオス(混沌)ではない。量子において決定論が否定されているが、決定論的思考は有効でなくなったわけではない。誤差があっても関係式として表現する価値があるなら決定論を土台としているのであり、波動方程式は確率的決定論とされている。決定論は否定されて話は終わったように思われるが、結局、決定論的に考えられるような姿勢でなくては人間は基準を持たず、判断力のないものになってしまう。

 編纂活動をしていると、自分の経験が浅く未熟であるために確信にまで至れなかった観念を、遠い昔の年老いた賢者が堂々と断言していたことを知る機会が稀にある。この疑念から確信への醸成は、本来私自身が長い時間を掛けて将来得られるものであったのだが、全く知らない人の意見によって未来を先取りしたことになるのだと思う。観念・思想の先物取引だ。アルベルティの「エクセンペダ」や人体均衡論の「カノン」は、そこまで得がたい着想ではないが、概念自体が名前を持って存在していることは勇気づけれる。自己の成長の各段階で類似した発想はあったが、先人の考えを知ることでより意識的に課題として捉えられる心境になる。これは自分だけでは中々難しいことだ。

 今度は2メートル離れた。これも結構前に描いた絵だから前回の日記のコメントのご指摘は反映されていません。本棚に寄りかかりながら立って描いていたので、アイラインは前回より高くなってます。

 近接の場合、ターゲット(二人の人間)の大きさが距離xに大きく左右されて大小が明確になる。今回であれば、手前の女性の頭の大きさが後ろの男性の頭の大きさの約2倍になる。正確には、距離に対して大きさは反比例する(当然か・・・)。
 望遠の場合、ターゲット(二人の人間)の大きさはほとんど同じ。
だから、複数人いる絵の場合、写そうとしている人間(被写体)からカメラがどの程度離れているかの視覚的判断の最大の材料は、視野内の異なる場所にいるもう一人の被写体の大きさ(との比較)である。
 とても日常的で取るに足らない出来事を文章化すると、面倒臭い言い回しになる。

 アイライン(視点、カメラの位置)が上がると、絵の机の列の平行線の紙面上の角度が増す。これも当然。仮に机がより左に寄った場合、机の平行線の紙面上の角度は減る。
 ここで、視点を無限遠に上昇(もしくは、下降)すると、机の列の平行線は自分の真下(90度)(もしくは真上(-90度))となる。この時、視点を上下運動だけでなく、左右にも揺動させても角度は微妙に変化する。視点を左右のいずれでも構わないが、無限大に離せば角度は0度に漸近する。これに加え、遠くにある物体は、詰めて描く(圧縮して描く)。この時、その圧縮する比率を圧縮率と呼ぶならば、この圧縮率はどのように表現されるのか。そして、その表現の式から導かれる結果は、私たちが現実で感じる感覚とどのように対応しているのか。以前、複比という概念が必要と思ったが、あれ以降考えていなかったな。

「だまされる脳-バーチャルリアリティと知覚心理学入門」っていうブルーバックス(講談社)の書籍は役に立った。疑う機会が少ない感覚について知ることができる。私たちが無意識下に判断している距離感などを、なんとか言語化できるように研究されていたりする。バーチャル空間とか作り出すことに役立てるという目的があるようだが、絵を描くにしてみても同様の姿勢であるほうがよさそうだ。
 エンメルトの法則というものがある。太陽のような強い光を直視した際にしばらく像が残る。これは、網膜の光を感知する細胞がサチッ(飽和し)た結果なのだそうだ。視野上の残像の大きさは、網膜上の一時的に機能が低下した細胞のある領域の面積と対応しており、普通に考えると残像の大きさはしばらく変化しそうもない。しかし、遠くの白い壁を見たときの残像の大きさと、近くの自分の手を見た場合に重なる残像の大きさは異なるのだ。そして、この残像の大きさは距離に正比例する。遠いほど残像は大きく、近いほど残像は小さくなる。これが、エンメルトの法則と言われ、錯視の一種とされる。つまり、脳は得られる情報から無意識に距離を割り出していて、それに基づいて残像の大きさを脳内で調節して、その結果、出力された視覚を疑うことなく私は信じることになるのである。
 自分にできること全てが、理屈を説明できるくらい十分に理解できているという理由により、できているのではないことは知ってはいるが、少なくとも理解しようとしなければ思い通りには操れない。エンメルトの法則を逆手にとれば、僕達に黙って脳が勝手に演算している距離を、残像の大きさの変化の差から割り出すことが出来る。その推定された距離Xが実測距離xをどの程度正確に反映しているかはどこかの学者が検証しているでしょう。自分が無意識に割り出している距離Xを知りたいがために、意識下で感知できる残像の大きさという情報から逆算して距離Xを見積もる。これが正確であれば、大した能力だと思うが。

追記110206
 レオナルド・ダ・ヴィンチの考案したカノン(Canon=古代ギリシャの美術用語で、基準・標準の意。)
「頭部は全長の1/8、面長(三等分される)1/10、髪際~のどのくぼみ1/7(ウィトルーウィウスでは1/6)、頭頂部~のどのくぼみ1/6、のどのくぼみ~へそ1/6、手1/10、胸幅1/4、腰幅1/6、全身は正方形にも円にも内接される。」

 分数化された肢体の各部位が、有機的連関を持つ統一された方程式として表現できれば、これまで語られた統率感のない散漫なカノンの次元から一歩先に進んだ段階になった気がする。

 アルベルティの使用した「エクセンペダ(@『彫刻論』(1464年))」と呼ぶ方法の基本的な考え方は、「人間の大小に関係なく、個々の肢体部位相互の同一関係を作ることにある。」このため、「最も基本となる部位の長さで割り、比にする。規格化する。」人間の肢体の適当な部位を最小単位として全体を測定する。

 人体均衡論の歴史の上で、幼児の身体についての最初のカノンは、9/10世紀のアラビアの学者結社「純潔兄弟団」に見られる。それは後にブラッチアや面長という単位が使用されることになる。基準単位による最初のカノンでもあった。但し、幼児の比例がそこで示される意図は、画家や彫刻家の芸術的実践のためでなく、それが「調和的宇宙論の一部」をなすという見方からであった。モデルとして新生児のカノンが示され、親指と小指を広げた長さの指尺が基準単位として採用される。身体の区切り方は古代ギリシアのそれに拠るとみなされる。

(参照・抄録:「アルブレヒト・デューラー絵画論」)

文房具とかの小物を書くのも面白いもんだ。
でも、構図(ターゲットとカメラの位置関係)による見え方の差異を確かめようと思い立たったからこういうの描こうと思えた。適当に描いているから、あまりクオリティに気を配ろうとしないスタンスは楽でいい。あくまで肉眼による見え方を確かめとこうって思った。30mm-55mmレンズが肉眼に近いらしいが、不勉強でよくその辺詳しくない。カメラ詳しい人に聞こう。

あと、構図って言うが、構図ってなんだよ?ッて感じだ。
 僕は、一応、ターゲットとカメラの空間的な位置関係としているが、正しいかどうか知らん。今まで構図を余り考えていなかった自分としては、どのような構図が良いのかと考える前に、求められた構図を正確に描くほうが重要なのだと感じる。
 となると、今の僕には構図の良し悪しを吟味するんじゃなくて(実際には自在に操作できるレベルでの吟味はされていない)、しょぼく見える構図だとしても正確に描けるような能力を鍛えたほうがいい。ターゲットとカメラの空間的配置による見え方の違いを構図と言うのなら、構図は良し悪しではなくて、正確か不正確かで裁量するべきだろう。個人的な経験・感覚として、構図が良いか悪いかを議論する時に、多くの場合、構図自体を言っているのではなくて、その構図がもたらす演出的効果を含めたものを良いか悪いか評価しているような気がする。もちろん、構図を正確に描ける熟練工達の会話なら、構図っていう単語が既に演出上の良さも考慮された単語として使われているのだろうけど…僕にはまだ無理だ。
 構図とは、単なるターゲットとカメラの配置による見え方の違いと考えているので、構図が悪いとは、純粋には空間的整合性が誤っていることを意味する。空間的整合性が正しければその構図は良いといえる…いくらしょぼく見えてもね。
 当分は、肉眼で見た、近接のターゲット、望遠のターゲットをシコシコ描いて行こうと思う。奥行きを圧縮するのは、臨場感が増すね。

 右の絵には、自分の肉眼で被写体を見た時の視野全体(四角い枠)を簡単に上の隅に描いています。これは約4メートルくらい被写体から離れているから、被写体が私の視野を占めている面積は結構小さい。右絵の下に描いた絵は、それを拡大した絵です。全体の視野をまず書けば、自分が被写体に対して、どの位置にカメラをセットしているかわかるし、絵にする(画面上に描く)場合は、全視野のうち、どの領域を切り取るのかというように段階的に考えようと思う。つまり、絵を描く場合に、自分(カメラ)と相手の位置関係を常に意識しておきたいというだけです。僕は今までガンダムとか昔から好きで描いていたから近接的なイメージを思い浮かべ易いが、逆に、映画とかアニメでは望遠レンズで覗いて、拡大したような構図が多いようなので。

 ベルニーニは凄い。写真見て描いたが目標に達しなかった感じ。
本物見て描きたいです!!天使の腕がふくよかと感じる。

 美しいものは自然と描こうという意欲がわく。いざ描こうと思って資料漁っても自発的に描こうと思えるものは見つけにくいが、そういう探索しないときに限って見つかる。体調とか気分の問題かもしれない。
 美しいものは、自分の持っている原料の組み合わせでは決して構築できない要素を含んでいることを直感的に与えているのではなかろうか。美しい対象を凝視するのを止めた瞬間に、喪失感が起こり、自分の記憶の中の像がみるみる崩壊していくことが不愉快だ。私を惹きつけて止まない美しさの本質を掴んでいない僕には、脳内に対象を保存する機構がまだ確立されていないからだ。保存できる材料が集まれば、もはや対象そのものに固執する必要がない。実際、その対象以上の価値ある概念を手に入れたことになる。次の美しいと感じるものを我が物とするべく探し続ける。美喰屋とでも言いましょうか。

『絵は頭で描くことであって手で描くものではない(by ヴァザーリ)』とあるが、もっと言えば、理想的には『眼』も使う必要はないのだと思う。目をつぶっても筆は動くくらいでなければ『頭』で描いているとは言えない。模写の場合は、『眼』でよく観察することは必要となる(厳密には、法則性を抽出するので頭もフル稼働なのだが)が、模写でなく資料なしで描こうとする場合、目に見える紙面上の筆跡の情報を手掛かりとして描いているようではいけない。それはつまり、迷っており、定規を持っていないことを意味する。もっとも信頼し、優先させる情報(定規)は『頭』に既になければならない。この定規を作るために『眼』が必要になる。一旦、作られると『眼』は補助的になる。この感覚を感じてもらうためには、『自分の名前を書く』ことを考えてもらえるといいかもしれない。今まで小学校から散々書いてきた名前くらいなら目つぶっても書けてしまう。それも、頭を使っているという意識すらないレベルまで昇華されている思考となっているはず。
 しかし、特別に鍛えられていない通常の人間は、その定規自体が大変曖昧で、拙いので、『頭』だけで描こうとすると限界を感じる。最終的には、『頭』だけで描ける事が理想なのだが、素晴らしい定規を作っていない段階で『頭』だけで描こうとすると思い通りに描けない。だから、『眼』で定規を作り、『頭』で定規を使うという関係があり、ほとんどの場合、前者の方が初学者には重要であって、後者の状態が許されるのは定規がある程度完成した人間に限られる。後者の人達だって、常に、定規をより好ましく更新していく姿勢が必要でなくなったわけではない。成長を感じなくなった場合は、大抵、『眼』を使わなくなった状態が多い。その時の定規により『頭』で描ける限界を感じ始めた状態ともいえる。

 普段は絵を描かない人の中で、僕より『ピカチュウ』や『ドラえもん』や『ミッフィーちゃん』などを素早く、上手に描ける方は多い(但し、よくある絵の模倣の領域を脱しないが)。だから、『人』を描かすと上手いのに、『ピカチュウ』を資料なしに描いて、ピカチュウっぽくないことに驚かれる。そのギャップに驚くということは、その人の考える絵を描くシステムに少なからず迷信が混じっていることを証明していることになる。知っている対象は上手に描け、知らない対象は上手に描けない、といった当然の事実を信じておらず、神秘的・神話的な力が作用して絵を上手に描けるのではないかということを少なからず信じているのだ。
 定規の概念がないと、自分が何をどの程度描けて、何を描けないかを区別し、把握することはできない。絵描きが、知りもしないことをも上手に描けるという観念が、どうやら存在しているようだが、これは迷信だ。何をするにしても、こういった迷信を自分から極力排除する姿勢がなければ大成はしないと思う。迷信との勝負!!その迷信も堂々と認識できるのではなくて、迷信とまず思っていないからやっかいだ。大概、その迷信を他者に否定されると憤慨するレベルであることが多い。つまり、迷信なわけないはずで、自分を支えるものを迷信としなければならない場合もあるのか。こういった迷信を生み出す温床は、ルサンチマンとも言い換えられるかもしれない。ここでは、迷信をルサンチマンと置き換えてもいいだろう。
 ちなみに、『天才』という表現も迷信の一種だと感じる。その言葉で形容したところで、何ら物事の仕組みを理解し、説明できたことにはならないのだ。ただ、そう形容していれば、なんだか知れた気にもなるし、自分にその対象を評価できるだけの悟性があるという面子も保たれるというだけである。中世の中国で未知変数が一つの高次方程式の解法を『天元術』と呼ぶが、今でいう未知変数xのことを『天元』と呼んだのだ(天元とは、もともと宇宙を根底から支配し、揺り動かしている究極の原理・真理といった意味)。この意味に従えば、『天才』とは、未知なる能才を有する者という意味に受け取れる。『天才』という言葉で評価するのは既に滅んでしまった人間の価値観だ。世界を牽引しようとする人々は、『天才』という空っぽの言葉で騙せるほど従順な精神を持ち合わせてはいない。『天才』という表現を多用するならば、その人の問題解決能力はほとんどないと考えてよい。ただし、自分のことを天才と呼ぶならばそれは素晴らしい。わざわざ、そういった発言によって自身にリスクの大きい桎梏を課そうとすることは、保守的で月並みな理性では適わないし、根拠のない天才という表現が最終的な理由となる方法論しか持ち合わせていないとなると、そう言い続けるだけの成果と自信が持続するとは考えにくい。

『天使を描くためには、天使を見なければならない(by クールベ)』
この表現は、絵を描くシステムを端的に表しているように感じる。

秘密結社とか将来作りたいね!

シンボルマークは、『権衡の女神 ネメシス』をモチーフとして、天秤と瞑想(両目を失った暗闇状態)のみで、物事の本質を権る。絵を描く究極系では目(光)を必要としないという意味に重心を置く。
観音様が光ならば、ネメシスは重力となる。

でも、色塗りは観音様でないとできないや。

結局は、両者の総合がよい。

十一面観音⇔十一面権衡
『観音』とは、『音を観る』、光・音波(視覚、聴覚)によって物事の本質を照らし写す。波動性。量子論。
『権衡』とは、『衡を権る』、重力・質量(触覚、力覚)によって物事の本質を推し量る。粒子性。相対論。

今年の抱負は何でしたかな。
来年の抱負は何にしよう。

追記:101231
 今思うことは、限られた情報しか持ち合わしていない私から導かれたのだから正しくはないだろう。しかし、それしか評価基準を持ち合わせてないし好きに意見を主張しようと思う。
 僕の体質なのだろうが、描いた結果にはあまり興味ない。描く工程の技術とその技術を作りえた思想と環境に興味がある。だから、今は、過去の人間の考えを学ぶことが先決だと思う。自分で勝手に必要だと思った概念があるとして、名前をつけるのはいいとは思うが、まず、同じような概念を過去の誰かが定義しているのならそれに従うべきだな。『デッサン学入門~創意の源泉を探る~ (南城 守)』を読むと、自分の意見が過去の誰に属したものかというのがわかる。僕と親和性が高い人物は、自然科学的思索、普遍性の追究を意識していた素描(デッサン、線描)を最高位の活動と位置づけた古代ギリシャ、ルネサンスの巨匠や新古典主義のダヴィット、プッサン、アングルなどでしょう。しかし、古典主義でないからといって素描を軽視している人は少ないようだ。多分、素描は当然重要で、マンネリ化した状況を打破するために新たな可能性を見ていたのかもしれない。決して、素描を否定することではないのである。

以下、まとめ。
『絵画における輪郭線は技術の終点である。人体の輪郭を一人前に描ければ、美術家として成功したことになる(by プリニウス)』
『まず、物を眺めよう(by アルベルティ)』
『素描こそ最高の学芸である(by レオナルド)』
『画家は自然を師としなければならない(by レオナルド)』
『画家は万能でなければ賞讃に値しない(by レオナルド)』
『絵画・彫刻・建築の創造の源泉はデッサンである(by ミケランジェロ)』
『目の中にコンパスを持つ(by ミケランジェロ)』
『(ヴェネツィア派の色彩絵画に対して)デッサンを知らない(修練しない)がための無理を、漠たる色彩によって隠さざるを得なかった(by ミケランジェロ)』
『絵は頭で描くことであって手で描くものではない(by ヴァザーリ)』
『自然はあらゆる芸術の母であり、素描はあらゆる芸術の父である(by ヴァザーリ)』
『ヨーロッパの芸術文化全体を集大成して自己のものにする(by ルーベンス)』
『個人を超えた普遍的表現を信じている(by ルーベンス)』
『偶然的なものの排除と確実なものの選択である(by ルーベンス)』
『筆触と呼ぶところのものは制作上の一つの濫用である。これは単に手腕を示すために、自然の模倣から遠ざかる誤った秀才と偽りの芸術に他ならない。筆触は、それがいかに巧みでも、目立つものであってはならない(by プッサン)』
『天使を描くためには、天使を見なければならない(by クールベ)』
『(印象主義理論に対して)自然によってプッサンをやり直す(by セザンヌ)』
『自然を球、円筒、円錐で扱う(by セザンヌ)』
『様々な場所、形象、家屋といったすべてを幾何学的な図式、つまり、立方体に還元する(by ブラック)』

 なぜ素描(デッサン)に“アカデミック=つまらない、月並みだ”という認識が染み付いたのか。素描を軽視する時代ならば、当然、素描の重要性を語り始める。素描の重要性が浸透した時代ならば、その反作用として、見たままにただ描く技術としてしかデッサンの意義をよく認識していない半可通によって批判が生じると思われる。
 作用が働けば、反作用は生じるわけであり、それは社会情勢、新技術(写真技術、彩色素材など)、ねたみ・自己是認に起因する真理の曲解、いずれも要因と成りうる。私の今の感情・立場に反作用的性格がないかと問われると、完全に否定は出来ない。

 今の私がどこに所属する人間なのかはある程度知れたが、モーツァルトの創作姿勢・修行を知ると、なんとか派だとか、どこどこに属するとかいう次元ではないことがわかる。望まれる精神は存在するあらゆる系統を全て吸収し、平等に扱い、自在に引き出し統御するだけの器量だと教えてくれる。
 今の私が、特に知りもせず感情的に悪い・嫌いと評価しているのは凡そ勘違いだ考えてよいだろう。馴染みのないものは大抵気分を害するものだ。初見にも関わらず素晴らしいと思えたものは、君がこれまでに漠然とそれを欲していたからだ。欲さないものを不快に感じるが、欲さないものが劣っているなんて評価を下せる権威など自分にないことは周知の通りである。自分が常に正しい評価を下せるモノサシを、現在までに培っているなんてことは決してない。にも関わらず、私は理性だけに頼らず、感情を多分に働かせて物事を判断し、結果として視野を狭めていくとは何事か!!…と思うのである。私が正当な評価を十分信頼できるレベルで行なえる権威があると思い違いをしていることに気がつかないのもまた、視野の狭さが助長させている。物事を誰よりも正当に判断できる基準を手に入れたいね。

 上記の今伝えられている過去の巨匠達は、僕らが思っているより、はるかに『自然』と『過去の巨匠』を研究している。また、明確で、親密な師弟関係が存在したことも現代の傾向とはまるで違うようだ。現代でも伝統工芸や大工などでは、依然としてそのような師弟関係が明確にあるのだろうが…。人によっては有名な絵師に憧れて、一方的にあたかも師匠のように設定し、技を盗もうと励んでいる場合もあろうが、師匠を明確に想定していない人も多かろう。成長スピードと視野を広くする契機の多寡の観点から言えば、師匠がいる方が確実に優るだろう。昔は、その道を志したら弟子として、どこか有名な職人のいる工房に住み込みで習ったようだ。そこまでしないにしても、そのような姿勢、つまり、自分の内側ではなく自分の外側に何かを求める姿勢、が重要だと現代においては強調するべきことだろう。

 あと、色彩に関しては、そもそも今みたいに欲しい色が即座に選択できる状態でないのが常識。300年前、今のように求める絵の具が簡単に用意できないので、レンブラントが開発されたばかりの油絵の具を使って『夜警』を描いたのが今までにない斬新な発色を表現できたようだ。技術開発も考慮したうえでの評価なのだろう。あの時期にあのレベルの絵を描けたことが重要なのでしょう。近代になって色彩が注目されたのは、チューブ絵の具が容易に使用できる環境が整備されたからだ。それ以前の、鉱物を調達して、溶剤に混ぜで納得する色彩を微妙な配合で生み出すような時代には、まず問題提起が難しいね。素描か色彩かはいずれが重要かという議論は、どっちも大事だろが答えでしょう。

追記110106
チェンニーニ(1360年頃-1440年)の素描の修行年数の叙述を以下抄録(『芸術の書』より)
「技法を修得するのに必要な年数を、まず知っておかねばならない。最初にパネルを使ってデッサンの初歩を学ぶのに一年を要する。師の工房に寝起きして、顔料を砕くことから始めて、膠(にかわ)を煮ること、石膏を捏ねること、パネルの地塗り、肉付け、盛り上げ、磨くこと、金箔を置くこと、金地に粒点を施すことまで、絵画に関するあらゆる製法、技法に精通するには6年を要する。ついて、顔料を研究し、媒剤を使って彩色し、装飾すること、豊かに波打つドラペリー(衣裳の襞)を金で表すこと、壁画に習熟すること、さらに6年を要する。その間、デッサンを常に心掛け、祭日平日の別なく、毎日毎日、デッサンを怠ってはならない。こうして、多大な習練を積むことによってこそ天性も立派に結実するのである。これ以外には、いかなる道を君が選ぼうと完成は望めまい。」
後日なんか絵を描こう。


以下、若輩者でありながら思ったこと、知ったことを書き綴った。冗談半分でお読みになってください。

岡本太郎について、調べる必要があってPHP新書の『岡本太郎「太陽の塔」との最後の闘い』を読んだよ。

 要約すると、大阪万博(1970年)で、岡本太郎は、イベントの基本理念であり、テーマである“人類の進歩と調和”に反対していた。その反対を、いわば、反博テロとして表現したのが太陽の塔なのだという。この太郎さんが持つ思想はどのようにして形成されたかが主題となっています。

 彼の培った考え方は、多くの賢者が述べてるように、過去の遺産への畏敬を持てといったものだ。当然ながら、今しか見えず、今が過去のいずれの時代よりも優れ、進歩した時代だと信じて疑わない大衆には持てない観点である。
 また、彼の絵画に対する姿勢も興味深かった。彼は絵描きではあったが、一旦、絵描きをやめてパリ大学の哲学科に在籍して、カント、ヘーゲルを学んでいることに『なんだとっ!それは本当か!!』って思った。
 私は思いました。やはり、普遍的で、永続的に評価される作品を生むその原動力と着想は、各分野の表現上の技術的優劣にあるのではなく、その技術を駆使する人間の哲学にあるのだと。やむにやまれず沸いた執念に近い哲学を、音楽、絵画、彫刻、文学、演劇、自然科学、建築など何れの技術を用いて表現、もしくは証明しても構わない。天才的、即ち、未来に永続的な生産力をもたらす作品というのは、小手先の技術ではなく、その技術を扱う人間の精神の深遠さにあると感じました。
 岡本太郎ら多くの賢人が言いたいことは、まさにこの人間の質のことである。今の世の中、天才、即ち、未来永劫の生産性を生み出すことができる人間が、今までのどの時代よりも少なくなってきているという感覚だろう。今の科学技術の繁栄は、科学革命以後、高々過去200年の先人の努力・資質が生み出した普遍知識であり、今の人間の偉業ではない。これは貴族の世襲制に似ている。偉業を果たし、ナイト、バロネット、バロンなど称号を得た父は偉大であるが、生まれながらに金・権力を相続する権利を持つ息子は、間違いなく父のように偉大にはなれない。今の私たちはその息子に他ならない。今の科学は、父の遺産であって、我の力と勘違いして自慢するどころか、父を畏敬する精神、学ぶ精神を持続させなければ必ず滅ぶ。歴史は教える。そうした息子は不満を持つ虐げられた人間に殺され、新しい父となりえる天才的能才を兼ね備えた人間(異端的革命者)が台頭することを。
 以上のような見解は、僕が古書店で科学系の教科書を買う時にも常々感じる。やはり黎明期‐まさに解明すべき対象と正面からぶつかり合った世代‐こそ素晴らしい知識が漏れなく溢れている。現代の本がいかに生ぬるいことか。書くべきことが書かれていない。誰もが、どんな天才であっても、つまずくべき石が既に道から退けられている。いや、本当は天才だったからこそ凡人ではつまづけない石につまづけたというのが真実だろう。そうした石が本来はあるのであるが、論理体系の編纂・推敲の過程で、あえて排除したと考えられる人間が生きている時代ならばまだ良い。第三世代、第四世代にもなれば、次第に、石など元々無く、想定もできない人間が増え始める。そもそも、凡人では発見できない石だということも考慮すると、自然そうなる。その場合、そうした石があったために成立する理屈・論理が説明できないために、愚かで見当はずれな飛躍でしか説明ができない人間しかいなくなるのだ。そうはいっても、やはり、天才が考えを巡らせた膨大な知識・経験・時間の数千分の一の労力も費やすことなしに、現代の教科書から、天才が到達した真理が得られる今の人間ほど恵まれていることはない。仮に教科書を見て理解できないことがあったとしても、発見者より少ない情報量で理解させようしているのだし、理解できないほうが発見者に言わせれば自然なのだよ。教科書を理解したと今の時代に生まれた僕が言っても発見者に苦笑いされてしまう。
 世代を重ねるにつれ、天才の偉大さを正当に評価できる人間は少数となる。無知文盲な人間が自分の体裁を取り繕うために『天才』だからという迷信染みた短絡的な回答を好む。だから、今の世の中、なんと易い天才が溢れていることか! 多くの『天才』という発言は、天才を正当に評価した結果使われた発言ではなく、凡人の憐れな悟性にはあまりにも不相応な巨大な虚栄心が欲する慰めの発言である場合が多い。そして、正当に評価できるようになったら、天才という一言で片付けることに違和感を覚え始め、むしろ、必然的な感覚を持つようになる。自分にとって裁量不能の現象を、全部、神様や天空の秩序のような類で片付けていい世界は、300年前に終わっている。この件に関しては、多くの哲学者がそういう宗教的世界観に従う民衆、特に僧侶を呪った本を書いている。
 書籍の質が下がるのは、需要と供給で最も採算がとれる程度のレベルが最も書籍として販売されることと、そもそも偉大な父はこの世におらず、お馬鹿な息子達が執筆する構造的欠陥が多々見られる本しか存在しないからだろう。もし、本当に偉大な父が生きているとすれば、そういった技術者は最先端で働いており、知識体系を編纂する段階ではない領域にいるのだろう。わからないことに対して、なぜそうなのかを突き詰める体質でない人間でも、今は科学者になれる・・・そういった貴族的状況だ。そういう人間が増え続けると、互いに自分の低能さを気づかれないようにする美辞麗句、馴れ合いが必要になるのは、人間の性質上避けられない。

 今はただ、自己顕示欲・虚栄心にまかせ、先人の遺産を正当に受け継ごうとする意欲のない愚者が、根拠のない自信-いわば、自分は生れながらに特別であり、他者から学ぶことなど何一つ無いくらい優れた人間だという観念-に基づき、極めて幼稚な自身の作品を自画自賛する程度の人格しか成長しない世の中なのだと・・・と私は受け取った。こうした傾向は人間の本質的な欲求も絡んでいると思うし、プラスの効用も多分にあるのでサジかげんが問題かな。こうした観念・欲求を満たせる機会、つまり娯楽が比較的現代には多いことも関係しているだろう。自己主張だけは一丁前で、発見・発想が誰のものなのかに関しては躍起になって分け前を求める。世の中、パクリでないものなど論理的にありえないということを知っておられない。こういう人間は、模倣の意義を知らない人間は、凡そ芸術的才能はないといっていい・・・。なぜなら、芸術は、自分よりも崇高な対象に接近するために、執拗に対象を模倣しようとする過程が長期に渡り不可欠だからだ。これは不断の自己犠牲、主観の放棄、滅私の強要に他ならないのですから。誰もが堪えられることではない。恐ろしいほどに練熟しきった模倣技術により、大量の知識が精確に取り込まれ、大脳皮質連合野にて高度に複雑にあらゆる組み合わせが無意識下で試行され、いずれ生じる、凡人では関連付けられない、起源追尾しきれない、素因数分解できない、一辺の曇りもない大粒の単結晶のような作品を、独創的だと大衆は評価する。つまるところ、パクリかそうでないかの判定は、大衆の悟性・教養に掛かっているといえる。
 絵のみに固執するのは避けた方がいいのだろう。視野が狭いと、唯一の自分の武器と意識できた絵を描くことが大事でたまらない。絵を描くことを一旦捨ててしまえって位の何か他のものへの没入が必要なのでしょうか。事実、文献に拠れば、岡本太郎は27歳頃、『絵描きはしょせん絵描きにすぎない』とある種の空しさを感じ、パリ大学の哲学科、民族学科に在籍し、一度絵とは無縁の論理の世界で過ごされたことが叙述されていた。
 ゲーテは、恐らくこう教えてくれるだろう。絵で表現するという出力方法は徹頭徹尾一貫して一つに定め、訓練を続けなさい。特に若いのだから、最も規範と成りうる教科書に沿ってね。それが、あなたの今行なうべき活動だ。しかし、入力に関しては様々な分野から学び、刺激を受け、修行として意欲的に励みなさいと。
 絵を描くことが自分であることのアイデンティティと仰られることを、否定はしないよ。でも、多くの偉大な作品を残した巨匠にとって、絵は自身の人生観や美的意識を反映させる一つの表現にすぎず、絵を極めるが故に絵以外の分野にも没入する生き方であった。この世を知るという! 500年経った今ですら彼らの作品は優れて新しく、われらを引き付けて止まない。どんなに優れた種子-哲学の胎児-であっても、砂漠では育たない。相当素養があれば、砂漠ですら哲学的思考をするには十分刺激的かつ単調だろうが。だが、そういった人間は砂漠以外のもっと刺激に満ちた環境を切に求めるでしょう。そのためには、やはり、十分湿り、養分が豊富な土壌を要求する。

以下、抄録引用・・・と思ったが、ページ数だけ記そうっと。

『岡本太郎 「太陽の塔」と最後の闘い』
平野暁臣(著)
p123-125
p139-141
あたりが琴線に触れる。

追記110106
ヴォルテールの『断片』より抄録。
『独創力とは、思慮深い模倣以外のなにものでもない(by ヴォルテール)』

色々、模写した。

 以前言っていたマーク・トウェインの『人間とは何か』を紹介しよ。読む度に、人間を妙に過大評価する宗教的世界観をぶち壊す、一昔前なら焚殺ものの出版物だと感じる。私はこういう内容大好きですが。
 この本は、『老人』と『青年』の対話形式です。著者の死後、出版されたものです。なんというか、著者は老人となって言いたいこと言ったようですね。熱力学(第二種永久機関の研究→エントロピー増大、統計学→神の不在証明)の発展した時代との兼ね合いでしょうが、こういう考え方になってしまうのか。個人的には結構好きなんですよ。一見、著者は大胆な書き物をしたようだが、内容自体は先人から学んだ内容だと確信して言える。彼は自分の人生経験を通じて、先人の箴言と対照を行い、然りと納得して書き上げたものと感じる。彼のこの思想は、必然的に先人の思想を彼に網羅・系譜させる状態に至らせる。ただ、ここまでこの思想に焦点を絞った本というのは珍しいのかね。

 青年が自信を持って披露する毒された常識に対して、ひたすら反駁していく老人の構図が終始続く。登場する青年はよく切れずに老人の話を最後まで聞くもんだと感心する。こういう若者は珍しいし、賢明だ。俺なら切れるんじゃないかと思う。

 言いたいことは、次回。

追記:101201
絵の人物の紹介・解説と色々学んだ世界観。冗談半分で捉えて下さい。

 カール・アンダーソン:ディラックの反物質の存在予測をミリカンと実験的に証明。宇宙線による電子対創生の際の陽電子を観測(1932年)。仏教用語では『空即是色』と表現される。純粋なるE(1022keV)→2mc^2。
 ウォルトン:加速器の原形となる装置[当時の新聞では原子核破壊装置と表現]をコッククロフトと製作。おめでとう。古代の錬金術師が待ち望んだ、人工的な元素変換の実現。この装置(加速器)が『賢者の石』に当たるわけだ。この時は、陽子を加速しているので、原子核への接近は難しく人工放射化はまだ容易ではない。中性子線を利用したフェルミまで待つことになる。そんで、原子爆弾製造へ。つまり、賢者の石は、『強い力』を解放する原爆(の素材)を生み出した(効率的に起爆させる技術はまた別物)。賢者の石の本質は電場・磁場による加速・質量分離だ。原爆にしても、中性子放出の連鎖反応という自然の神秘的な原理を空想し、素材(ピッチブレンド)を見つけたことが全てだ。賢者の石により、天然に1%程度しかないウラン235を99%まで濃縮する[濃縮ウラン]。もし、ウラン235がなかったら、原理的には空想できても、実現できる素材がなければ人間にはできはしない。感覚的には人間の力と認識するのは間違いだ。到底、人間にできる芸当ではない。
 5万年前の原始人が、マンモスを高い崖に追い込み、地面に叩き落すために誘導する構図と同じ。何もこんな暴力的な場合だけではない。芸術活動で素晴らしい成果を挙げるだけの力の起源も同様の構図である。
 芸術家は絶大なる自然の神秘の代弁者[ブラウン管]にすぎず、芸術家自体が個として持つ神秘性に感動[感応]しているわけではない。芸術家を透過して、映し出される自然の美しさに感動しているのである。こうした感動を引き起こす力を持つ芸術家はもちろん賞讃に値されるものである。ただ、多くの芸術家は起源を忘れているのではないか。自分が賞讃される力の起源を。どういうわけが自分の力だと錯覚している。力の起源を自分自身だと錯覚して、自然を見なくなった瞬間に、彼らに与えられていた無窮の大地の恩恵は途絶え、彼らは見る見る萎れていく。彼らは、なぜ力が増幅しなくなったのか不可思議に思う。樹木を根っこから引き抜く行為と同等であるにもかかわらずだ。瑞々しく熟した果実は、一体誰のおかげで結実したのか知れ。起源を気に掛けることは身のほどを知る為に重要だ。
 この着想は、ゲーテ[詩人]、ラッセル[数学者]、マーク・トウェイン[文学者]、ヴァザーリ[建築家]に関しては同様の思念を持っている、系譜されていると解釈している。僕は彼らの着想を自分の経験と対照して、『然り』と共感し、現在採用してる。だから、あえて極論となりますが『個性など捨てろ』、『無個性を求めろ』と主唱している(立場により、この主張は正しくないかもしれないけれど)。結局、どんなに無個性を極めて、自然を完璧に再現しようとも、自然の代替物にはなれはしない。究極美を有する自然を目指した結果、どうしても接近できない残差こそ、評価に値する個性として発露する。だから、僕らは意図的に個性を求めずとも、個性から逃れられないのだ。安心して、無個性を極めるといいと思っている。
 雪の結晶で同じものはこの世に二つとないとされる。両手いっぱいに盛った雪に含まれる無数の結晶は全て個性的だ。しかし、その背後に潜む、この世を循環させている法則は普遍だろう。どの雪の結晶にも、同じ法則が適用されているにも関わらず、その様相は千差万別である。人間にも同様の理屈を押し広げたいと僕は思う。法則を知るには、表面上の個性に捕らわれているわけにはいかない。根底の法則を見極め、その気になれば、自分の結晶の形態をも自在に変更できる掌握者とならなくては。となると、もはや個性などどうでもいい。君のようになるには、どのような条件・引数を我が身に委ねればいいか知れるからだ。無個性・普遍的な原則から、個性が顕現するシステムはこのようなものだろう。自分だけが持てる定まった個性などありはしない。個性は選択し、捨て、操るものだ。CD-RとCD-RWのいずれで個性を捉えるかということ。後者ならば、シャアの発言が理解できる。良し悪しは無視して特筆すべき個性を持つには、大衆と同じ有り触れた経験・環境・境遇からいかに遠ざかるかが重要である。現実的には、人間には運命を精密に操る力はないので求める条件など作り出せない。ある思想を自分に育む必然性を生む環境が戦時中だとしても、それを自分が全く関わらず自由に作り出すことはできない。ただ、自分が関わり、自然の力を知恵で誘導すれば、大雑把には人間の身でありながら条件を現実化できる。戦争の話を聴いたり、読んだりしても、劣化してはいるが似た条件を作り出せよう。

 自然の力を引き出す誘導こそ人間には知恵により可能であるが、こうした自然の力は誰にでも平等に世界の至る所に連綿と流れているもの。力の根源自体に人間としての個は関係ないのだから、『能力の有無』といった問題は先天的にはないはずであり、そういったものは経験・知識など後天的に補うことで如何様にもなる問題である(この意見の論証は難しいが、自信に満ち、力強く、妬まず生きるためにはこの姿勢は必要ではないのか)。いかに力を誘導する方法を知っているか、そういったものを無意識に学んでいる環境・境遇が全てである。
 漫画とかで人間に強力な能力を持たせるにしても、こうした構図の方が現実の人間の様相に即した表現となる必然性を生む。人間の扱える矮小な力で自然の大きな力を制御できる機構を考える。機械仕掛けの世界[半永久機関]を規定する公理[ルール]を明示する。そうした無差別に適応される世界の条件を洗練された形で決めることが重要だと思う。真理に即すことが全てではないとも思うが、今いる世界の真理と呼ばれるものは最低限学ばなくてはならない。そうしたことを学んだ上で、あえて特別な人間(事実上、人間ではない)を創ると面白い操作が可能になるでしょう。運命を制御できる存在との遭遇の話は、既に使い古されているが、個人的に感興の尽きないテーマである。
 運命を制御できる存在は、僕らの次元で言うところの『人生を考える』『人としての幸福な生き方』『哲学』などはまるで関心なんてないだろうな。彼らは言うだろう、そんなものはお前が考える所ではないと・・・ただただ翻弄され、心が楽になるようにお好きなように解釈・納得なさいと。いや、多分、こうした意思疎通すら成立しない。彼らは僕らに『言う』という行動を誘発するほど関心がない。それも全く悪意のない無視である。彼らは、僕らの人間関係や生きる環境など容易に変更できる。条件変更された結果、僕らの価値観・人格はそうした変化に大きく揺さぶられ、求められた在るべき形にまで予定通り順応するに至る。つまり、僕らが尊重する人格なんて彼らの操作次第であり、彼らは自在に私たちを制御できる。まるで僕らに自由意志なんて感じない。コミュニケーションが成立し、互いに尊重し合える存在と成りうるなんて微塵も思わないでしょう。僕らを殺しても、罪なんて意識全然ない。僕らが河原の小石を蹴って、『ごめんなさい』と言う意味がわからないようなものだ。彼らの持つ姿勢・意欲としては、上司[神様]が仕事だからやれって言うからやる事務処理程度としか思っていないだろうな。彼らは、僕の人生を事務処理のように心無く機械的に扱う・・・まるで関心がないのだから。僕らにとって、手足も意思もないどこにでもある『石ころ』を気にとめるか否かと同程度の関心事でしょう。それでも、気になってしまう憐れな宝石は確かにあるのかもしれない。メフィストにとってファウストはそういう存在だったのだろう。話を戻そう。

ボールペンで描いたものです。ひたすら描いてみる実験。
後頭部-首-肩のあたりの立体感とかよく見とこうと思った。

ワンピのOP13カッコイイね。胸熱だわ!

今日もアニメが見れることが幸せだ。

 話は全然替わるが、今、ルネサンス期から科学革命までの一連の歴史について興味がある。ルネサンスに天才が偶然、沢山生まれたのではなくて、そういった天才になりえる人間はいつの時代にも一定量存在すると考えるのは許されるだろう(私は人間なんて素粒子と同様、個性など皆無という仮説を物を考える時には採用しているので。個性的だと感じるのは忘却作用によるものだ。)。興味深い点は、どのようにしてルネサンス期に、天才が開花する状況を作ることができたかである。まず、神の不在を証明するような科学的思考(悪魔的思考)を広めたりすることが許されない世界であり、異端として認識されれば最悪、焚殺される。そういった圧力があったことも事実だが、直接的な原因は、10世紀頃に、古代エジプトやアラビア圏で紀元前~10世紀までに発展していた錬金術と永久機関の研究内容の書籍がギリシア語からラテン語翻訳されてヨーロッパ中に広まったことでしょう(12世紀ルネサンス)。内容を知ると、どうやら当時の宗教・哲学が教えるような世界ではないと気づき始める。神さまを理由にするまでもなく、物事が説明できてしまったんだな。神の名を借りて私欲を満たす聖職者がいれば、その論拠となる神を殺しにかかる人もいるだろう。

 錬金術から化学になったのは、元素リンの単体抽出からだといわれる。面白い点は、当時の錬金術などの科学的実験をしている人は、魔術師と呼ばれている点だ。魔術師自身も錬金術で使用する技術:酸化、蒸留、析出などの化学的処理を魔術と呼ぶのですから。現代的には、科学と魔術は対立するような概念だ。しかし、宗教的世界観が常識の当時としては、現代の科学の立ち位置に宗教の教えがあり、それ以外の神の権威を脅かす異端思想は魔術的だと表現した。実際、ローマ教会は翻訳によって広まった錬金術を魔術的だとして禁止した。今の感覚からすれば、宗教の方が魔術的でしょうよ。

 魔法を既存の科学よりも高度な科学と認識するなら、まさに歴史的に証明されているね。

 当時の魔術・異端の思潮を受け継いだのが現代の科学。つまり、今の科学者は当時の言葉としては魔術師に該当する人々なのです。多分、僕は『光の魔術師』に該当するんだろうが、もっと広く『量子の魔術師』とかいうと新鮮だな。
科学革命前夜の研究などは、力学・光学は今でも遜色のない内容なのに、同列の学問である錬金術では魔術って言葉が使われているという状況だったのは夢があるな。科学者(魔術師)が元々とんでもない夢追い人っていうのがわかる。科学と魔術が錯綜した時代は確かにあった。

 アラビア語の定冠詞(al-)を発見すると中世はまさにイスラーム時代だったんだと気づかされる。錬金術(アルケミー)、アルコール、アレキサンドリアなど。化学はアルケミーから定冠詞をとったもの。アルコール⇔アル・コホル。コホルとは化粧瓶のこと。アル・イスカンダリィーア(the 地中海)。アルマゲスト(天動説、al-magest=最も偉大なもの)。アルゴリズム(the フワリズム出身の人、中世アラビアの数学者)。

 アッバース朝などのイスラーム文化の国の大躍進により、キリスト圏の国の勢力が縮退したことも科学的思考(決定論[運命論]的思考、悪魔的思考)に対して圧力が減少した原因の一つかもしれない。ラスター彩陶器(今で言うセラミックス素材)などの工芸品など見ていると、イスラームは一応、偶像崇拝禁止だけど人間や動物の絵などの陶器が多く出土していることがわかる。キリスト圏よりは、錬金術などの魔術が発展できる柔軟な風土だったのかもしれない。

追記110106
 イスラーム(神への『恭順』を表す)の人々は、神のもとでの平等を原理として掲げ、奴隷の存在を原則として認めず、理論科学による実践の補助を鼓舞した。バグダードのバイト=ル=ヒクマ(知恵の館)。

参照
1) ルネサンスの思想家たち(1963年、野田又夫)
2) 神と物理学(2002年、池内 了)
3) 科学史年表(2003年、小山慶太)
4) 科学論入門(1996円、佐々木力)

腕の比率を統計的に調べた。 
男女411人(20-30才の成人のみの集団)をヒストグラムで表示すると、400人オーダーであっても粗さはあるね。3000人位いれば、細かなギザギザが消えて、綺麗なピークになるでしょう。分散も小さくなるだろう。
 色々な要因はあるだろうが、統計誤差を反映してピーク形状には、明確な平均値μと標準偏差σが存在し、左右対称の正規分布を適用できそうだ。手の長さなどの絶対値を使用すれば当然、男女差が見られ、フタコブの分布となる。しかし、手の長さの絶対値で規格化すれば、その比率は男女間で有意差は見られないと判断した。だから、男女を合計している。というか、男女合計して人数稼がないと、もっとピークが劣化してしまう。

 問題は、上腕/手の実験値の標準偏差σが大きいことだ。
この要因は、上腕骨頭の位置などを決める人間が、目算で決めているからだと思われる。つまり、手や前腕と比べると、上腕の上端側の、腕と肩の境界が明確に位置づけることが困難だということだ。

 要点は、手/手:前腕/手:上腕/手=1:相加平均:φといえる(的中したな。相乗平均はここでは当てはまんなかったが。)。
今回のデータを利用した場合に限りという前提はありますが。上腕/手の実験値と黄金比φの値に開きがあると思われるかもしれないが、これは母集団が数千人級になれば、平均値μが黄金比φに限りなく接近するという予測に依拠した判断。実際、この誤差がどの程度が例を挙げて示す。

僕の手は20cmであり、
手/手:前腕/手:上腕/手=1:相加平均:φに基づけば、
前腕=26.18cm
上腕=32.36cmと推定される。

上腕/手の実験値1.6419として再度計算すると
上腕=32.83cm
となる。

 上腕/手の実験値を黄金比に変更したところで、その差は、
わずが4.7mmである。目算で測定点を決めて、さらに肉という押したら凹む流体を測定しているんだから誤差でますよ。そういった誤差と個人差が全部、標準偏差σとして反映されている。

肩~手までの長さは3/2φ^2となり、両腕を合計すると3φ^2となる。
これからは、さらに全身に黄金比を適用していく。

 黄金比を使用する意義なんてそもそもないだろう。強いて言えば、昔から美しいものには黄金比が隠れていると語られている程度である(実はあったのだろうが、しだいに忘れ去られたか)。信憑性は微妙なものだ。ただ、黄金比を無理やり関連させることはできそうだと言ったスタンスと期待で行ってはいる。

 黄金比を整数比に近似したとしても、その数値を絵を描く上で利用するのは難しいだろう。着眼点は、統計データに基づいて、人体の比率を定量化し、感覚的・視覚的に描く上での指標が妥当かどうかを検査し、普遍性あり、かつ感覚的に利用しやすい指標を見出すことである。黄金比が持つ性質ゆえに成立している描き方、指標があるのだ(もしくは、あなたの指標や描き方が成立するためには、黄金比は必然的に要求され得るのだ)。これは、まだ予見の段階。

 数値入力で3D人体モデルを作成するとかしない限り、数値データが直接的に活かされることはないのではないかと思う。

何にせよ、今回の腕の比率は、一般的に価値ある結論となる。

 風邪引いた。多分、原因はスルメ。スルメを食ってたんだよ。で、ちょっと固めのまま飲み込んで、どうやら喉が傷ついたらしい。腫れてて、つば飲むだけで痛む。そんで、多分傷口から細菌なんかが入り込んで、頭痛、発熱、倦怠、不眠、吐き気を催した。
 今日は、風邪薬買って帰るわ。

 右の絵は、髪が乱れているんですけど、もっと立体感出したかったですね。指とか、髪とか、情報が多い部分を敢えて十分に描く事ができる以上のスピードで描こうとしていると、たまーに良い手さばきが生まれるときがある。この手さばきは、どういう思考経路で行っているのかという理屈を考えると非常に言語化しにくい。でも、どういった行動によって生まれたか、身についたか、ははっきりしている。それは、今自分ができる以上に速く描こうとした行動からである。

 自分が『出来る事・行っている事』ことが、自分が理屈を理解しているから実現しているわけではない。やっぱり、理屈を述べるのは危うい。自分をどこにでもある平凡な試験体という認識でもって、投薬実験されているという立場の方がいいか。試験体の精神よりも体の反応の方に興味がある。風邪薬飲んで、治る理屈を理解している者だけに効き目があるとかだったら誰も買わない。

 科学における理学と工学の関係も近しいものがある。工学は、現象の理屈を理解できなくても、十分傾向を予測できるなら大いに利用していこうという姿勢だ。理由を窮める理学も、探求して得られた結論が、『世界はそういう風にできている』と言えるに過ぎない。真偽を考慮しなければ、宗教の方が理由という面では人々の需要に適っているものと思える。

 デッサン会の絵が溜まっているので更新。右の絵はネフェルピトーっぽくなった。髪が難しい。時間的な制約もあるからシルエットを捉えるのがやっとでした。

 今期(秋)は結構アニメ見ているよ。インデックス、俺の妹、ヨスガ、綺羅星★、ざくろ、MM、そらおとf、神のみぞ、とらぶる、探偵オペラ ミルキィホームズとか見てる。ヨスガのソラルートは期待しているんだ。そのころも作画が保てるかどうかだけが心配。ヨスガのキャラデザは好きだな。キャラというよりは、アニメーターが描いたキャラデザの絵柄が好きだ。


以下、ラッセルさんからの引用です。

 独創性とは何か。天才と凡人の境界を引く行動・思考様式の違いとは何か。人はいかに成長し、求める技能を掌握するのかといった見解は多くの方が既に語られている。
バーラント・ラッセル『幸福論』p177‐から引用。

 あるとき、ソーセージ製造機が二台あった。ブタをこの上もなくおいしいソーセージに変えるために作られた精巧な機械だ。(ラッセルはここで、ソーセージ製造機を二種類の人間に例えている)
 そのうちの一台は、ブタへの熱意を持ち続け、無数のソーセージを製造した。一方で、もう一台は、言った。

『ブタなんかどうってことはないさ。私自身のしかけのほうが、どんなブタよりもずっと面白いし、素晴らしい。』

 彼はブタをはねつけ、己の内部の研究にとりかかった。本来の食物が入らなると、彼の内部は機能しなくなった。そして、研究すればするほど、内部はからっぽで馬鹿げたものに見えてきた。これまでブタをおいしいソーセージに変えてきた精巧な装置は、全て止まってしまい、これで一体何ができるのか、彼には見当がつかなくなった。

 この後者のソーセージ製造機は、熱意をなくした人に似ているし、一方で、前者の機械は、熱意を失わなかった人に似ている。精神は、不思議な機械であって、提供された材料を全く驚くべき仕方で組み合わせることができるが、精神は、自力で材料をつかまえなくては無力である。また、ソーセージ製造機と違って、精神は、自力で材料をつかまえなければならない。
 もしも、種々の事件が私たちの興味を掻き立てないのであれば、私たちはそれを全然利用していないことになる。従って、内部にのみ注意を向けている人は、注目に値するものを何一つ見つけない。一方、外に注意を向けている人は、たまに自分の魂を調べてみるようなとき、心の中に、限りなく多様で興味深い種々の成分が分析され、組み替えられて、あるいは美しい、あるいは有益な模様を作りつつあるのを発見することができる。 

以上です。

 僕ならば、人の心を『水』と例える。水だけではいくらかき混ぜて、放置しても何も生じない。しかし、日々、色んなモノをドッポン、ドッポンと加えていけば、水を反応場として、僕が望む望まないに関係なく、概念・思念が結晶化し、取り出すことができる。この作用は、半ば強制的・運命的であり、一旦起こした反応を止める自由も僕にはない。この性質を機械と表現しているのでしょう。熱意を失わなかった心というのを『熱水』と例えるなら、心は鉱脈と同じ状態と言える。熱水は飛躍的にモノを溶かす。水熱合成に対応する。こうして得られる多種多様な鉱物の一部は宝石に成り得る。
 質量保存則というのがあるが、潜在概念量保存則というものがありそうだな。(厳密には、質量欠損があるから結合が入れ替わる際に質量保存は成立しない)なんにせよ、ラッセルのこの説明はシステマティクである。人は外からの取り込みなしに有益な情報を一切生み出せないといってる。しかし、人は、特に若い頃は、無知ゆえに根拠なく自信に満ち、自分に無限の可能性を信じている感覚はあった。ラッセルの説明は、真実かもしれないが、魅力的かと問われると腑に落ちない。僕はどこかで決定論を強力だと思う傍ら、それを断ち切る存在に憧れている。まだ、心が若いからかもしれない。


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ごんきゅう(権窮・GONQ)
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趣味
・寝ること
・デッサン会
・異分野の本物の人間に会いたい
・真理編纂活動
⇒私の確信・直観の正当性を歴史の焔に焼べる。燃え残った"鉄塊"を我が真善美・規矩とする・・・そういった孤独な火遊びって意味。

確信・直観の裏付けのための書籍。即ち、焚き木。
■ 美の本体
(岸田劉生)
■ 自分の中に毒を持て
(岡本太郎)
■ 人間の建設
(小林秀雄、岡潔)
■ 人生の鍛錬 小林秀雄の言葉
(新潮社 編)
■ 現代語訳 学問のすすめ
(福澤諭吉、訳:斉藤孝)
■ 努力論
(斉藤兆史)
■ 努力論
(幸田露伴)
■ 機動戦士ガンダムthe ORIGIN
(安彦良和)
■ 創造への飛躍
(湯川秀樹)
■ 行動学入門
(三島由紀夫)
■ こころの処方箋
(河合隼雄)
■ ニーチェ入門
(竹田青嗣)
■ 大衆の反逆
(オルテガ)
■ ゲーテとの対話
(エッカーマン)
■ 人間とは何か
(M.トウェイン)
■ 思考の整理学
(外山滋比古)
■ 文芸批判論
(T.S.エリオット)
■ 歴史とは何か
(E.H.カー)
■ 幸福論
(V.ラッセル)
■ 共感する女脳、システム化する男脳
(サイモン・バロン=コーエン)
■ 人間性の心理学
(宮城音弥)
他、少々。

絵のための参考書
★ プロメテウス解剖学アトラス
(坂井建雄、松村譲兒)
★ やさしい美術解剖図
(J.シェパード)
★ やさしい人物画
(A・ルーミス)
★ 漫画の教科書シリーズNo.3リアルなキャラクターを描くためのデッサン講座
(西澤 晋)
★ The Art of Drawing
(Willy Pogany)
★ ANATOMY AND DRAWING
(Victor Perard)
★ デッサン学入門~創意の源泉を探る~
(南城 守)
他、少々。
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