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人間の建設(岡 潔、小林秀雄)より。

 紹介したい部分は広い範囲に渡っています。対話形式ということもあり、やや長い前置きを経た上で要点が散在しているので、部分的な抄録では文脈の理解が難しいと思います。理解し難いと思いますが以下、若干の注釈をした上で紹介します。 

(本文、省略させていただきます!!)

ここで僕一人ではなかなか勇気と確信がなくて主張できないが、可能ならば言い切ってやりたい発言がありました。一部、列挙すると、


「今の芸術家は嫌な絵を押し切って描いて、他の人には描けないといって威張っている。」
→個性や独創性は確かに大事だが、評価に値しない(普遍性がなく、共感を生まない)あぶくのような個性を主張しているということだろう。

小林
「今の絵描きは自分を主張して、物を描くことをしないから、それが不愉快なんだな。物を描かなくなって、自分の考えたこととか自分の勝手な夢を描くようになった。」
→自分の想像だけでなく、実際にモノを目で見てデッサンしろってことだろう。大衆が思っている以上に、人間個人が独自に思い描く内容の99%は、自然が表現するものよりも相当つまらないものだという認識が自分にはあるし、そのスタンスで今のところ文句はない。


「この松の枝ぶりが良いとかいけないとかいう見方は、思い上がったことなのです。」
→僕が望む絵描きは、被写体がどのようなものでも絵になり、被写体を選り好みすることはない。上文では、選り好みしなければ絵にならないという絵描きの態度は、思い上がったことだと言っています。選り好みしなければならないのは、、被写体に責任があるのではなく、絵描き自身の未熟さに原因があるということだろう。
 「絵になる=それらしく見える」のであり、「美」とはまた違ったニュアンスなのだと思います。
以上の3つです。

 僕の立場からすれば、絵を描くときに悩むことなんてなくていいんです。目の前の被写体をよく見てありのままに描けばいいのです。描けないもの(知らないもの)を無理やり描こうとするから、想定外の現実とは掛け離れたものができあがる。
 僕は知らないことを極力描こうとはしない。なぜなら、描けなくて当然だからだ。ここで悩む人がいるが、描けないことは必然的な帰結ですので、知らないものを描けないと悩むことはないのです。むしろ、描けないことは、知っていないということになります。

 僕に描ける絵は、描けるレベルで知っている範囲のものであるか、もしくは、知らないが完全に模写を行う場合だけである。全く新しいものを描けるように見える場合があるが、それは既知情報の複雑な組み合わせで必ず説明されるべきであり、鑑賞者はその情報の組み合わせを容易に解体できないから「無からの創造」という安易な解釈に、自分の及ばぬ知性の慰めを行う。「組み合わせの妙」とは、それだけ多彩深奥だと思われる。なお、自分はルーベンスと同様に、引いた線に対する起源や意図には説明責任を持つべきという気構えである。だから、人の意図を極力消したり、偶然性を全面的に利用する絵描き(そういうのを認める部分もあるが、説明責任まで放棄されると困る)や、小我に捕らわれた絵描きの意見とは相性が悪いだろう。しかし、あくまで僕の信念に沿わないという個人的見解に過ぎず、世間一般には認められるべきだろうと思うし、そういうやり方でないと生まれないものもあるでしょうね。

 新しいものを描ける様になる為に、模写は知識の入力の役割を果たす。絵を文章と例えるならば、模写の精度が優れることは、単語の意味を辞書できちんと毎回正確に引くことに対応する。模写ができなければ、意味のある文章は作ることはできない。「模写の意義」とはここにあると確信を持ったのは、絵を描き始めて3~4年目だった。ちなみに、この上達の工程は絵に限ったことではないと思う。上達の基本構造だと敷衍したい。

 知人の画家によれば、模写は出来て当たり前であり、半年やれば誰でもできると言っていた。この時、自分の唱える方針が、あまりに当たり前に受け入れられたことにやや驚き、自信が持てた。一方で、模写ができない人が多い(出来ないといっても程度は人によって違いますが)。
 模写をしない人はそもそもできる能力がないのではなく、模写の意義を軽視しているか、全く知らない人だと思う。模写の意義を知り、なお模写の技術を高めようとしないならば、それは僕とは求める終着駅が違うのだろう。そうならば、お互い比べあうということに意味がないのかもしれない。「飢える」対象が自分とは違うのだと割り切るしかない。

 僕が絵を描くときに悩むポイントは、模写で得た正しい情報をどのように秩序立てるかなのであり、何度も消したり描いたりして、その場限りの、あてずっぽうに、視覚的に、正しい線を探そうとすることではない。ただし、あてずっぽうに何度も消したり描いたりする段階が成長の段階で一度もないというこはないだろう。まずはそうやって森を見ずに、一枚の葉っぱだけに固執するような段階はあるのだと思います。そうやって、いずれ、顔という一つの木、腕という一つの木をストレートに描け始め、ひとつひとつの木をどのように描けるようになったかを反省すれば、おのずと自分の方法論が確立されてくるのだなと思う。
 ちなみに、この情報の秩序化(=有機的な結びつき、系統化)という過程が、文章で例えたところの文法に対応する。この文法を作る作業にこそ相当考えなければならない。私の思う絵描きの独創性とは、描いた結果としての絵(絵柄)にあるのではなく、絵を描く文法をどのような知識を用いて、いかに構築したかに掛かっていると思う。僕は今このことを思いつきで言ったけど、実際、自分の執着する部分(自分が飢える対象)はこの説明通りだろう。薄々気がついていたことだが、このブログで考えを文章化することで自然と湧き出た結論だ。この結論の導出も、おそらく「組み合わせの妙」だろう。絵描きの独創性と一般化して言ってしまったが、正確には自分は成長の現段階で、最もこの点に飢えを感じると言った方がよいだろう。
 デューラーの「絵画論」では、描く方法にどれだけ彼が思索・飢餓していたか伺える。ああいうのを知れば、彼が求めていた価値基準というものは結果としての絵だけを見ても読み取れるのは難しいのだと思う。仮に読み取れるならば、その人は既に素人ではなく熟練者である。デューラーからすれば、結果としての絵自体よりも、形がなく抽象的な方法を第一目的で求めていたのだと感じる。結果としての絵は、より高尚な目的のための一つの実験結果に過ぎないといえるのかもしれません。より高尚な目的には、小我に捕らわれない普遍性があった。
 デューラーの文章には、当時、少数の本物といえる巨匠がそれぞれ持っていた方法論を彼らが秘していたことや、ギリシャ時代・イスラーム時代の巨匠が書き記した有り難い著書が「知識を愛さず憎む人間」によって失われてしまったことに、若干の苛立ちを感じさせることが多々あるのである。彼の意見には非常に共感できますし、そういった意志を僕は引き継ぎたいと思うのである。スタドラ的に言えば、やりたいこととやるべきことが一致したのである。

 英語の文法が厳密に定まっているように、絵の描き方にしても曖昧でいいわけがないのです。市販されている絵の教本には、どんな構図・ポーズであっても、同じ文法に沿って常に書くべきだ、そういう練習をせよと明示されていた。 
 世の中の絵描きには、絵の文法が未発達の人間と絵の文法を持っている人間とがあるだろう。自分なりの文法(方法論)の確立の有無が、絵描きの実力(=問題意識)を推し量る重要な要素であり、プロとアマチュアの分水嶺だろう。 
 プロとはどんな要求に対しても、ある一定以上のクオリティを機械的に、時間に比例して生み出せる方法論を持っている人間のことだと思う。そういう方法論を成熟させずに、〆切などを守れる安定した実力は実現しないと思う。

 自分の行ってきた方法が、自分の予定通りかといえば、全然そうではなく、がむしゃらにやっていたら何となく辿り着いていたといった感じだ。今になって成長の軌跡を分かりやすく話そうとしても、一つ一つの概念(圧縮化、模写の意義など)の説明はそこそこできるだろうが、どのように組み合わされて発展してきたかを時間軸に沿って記述することは難しい。いずれも並列していたような気がする。つまり、自分の境地を第三者に実現させることは難しそうだ。何より僕の成長の仕方は、万人が共感するには癖がある僕特有の「飢え」が選び取ってきた道なのだから、仮説的には結論をシミュレートできても、僕と同様の「飢え」がない人からすれば、ひどく苦痛な道だと感じ、作業を受付けないでしょう。逆に、僕には乏しい「飢え」が、ある人には狂おしいほどあって、その人特有の成長を促すのかもしれません。それは僕には真似できない。真似できないというか、真似しようとする意欲がわかない。僕にできることは僕に似ている少数の方々のために、僕というある種の飢え・癖のある試験体が、どのような刺激を求め、どのような応答をしたのかを明示して、大勢のなかの一例となることが精一杯なのかもしれない。
 提示しようとする方法論は、もちろん共感・普遍性を兼ね備えていることを望むが、その方法論を指示通りに完遂可能かどうかは各自の「飢え」によるのである。つまり、受け入れればできるが、受け入れないからからできない・・・そういう方法論となるでしょう。「飢え」は、生来的な要因・環境・境遇などそれこそ全く同じ条件を与えられた人はこの世に二つといません。だから、「飢え」の種類に良い悪いはないし、「飢え」は各自異なったほうがきっと面白い。
 上達の秘訣は、自分の「飢え」を正しく判断して(に素直になり)、満たすように習練することになる。私が確立したい方法論は、方法論を受付けるか受付けないかを左右する「飢え」にまで配慮されてはいないと思う。「飢え」まで作るとなると、それはその人の性格を根本から変えるという位大変な作業だろう。そういうのは、小中高学校の教諭など教育者が長い時間、手間かけてする仕事だろうね。だから、僕と同じ「飢え」を持ちえた人にA→Bという人の主観によらない運命論的な方法を提示できればよいのかなぁと思う。僕にしても、ゲーテ、デューラーなど、自分と親和しやすいと思う人の考えを受け継いでいるわけであり、そのような人生の師匠、自分が目指したいと思える人をまず探せっというような、既に多くの人が使い古した人生論的教訓となってしまう。
 極論かもしれないが面白い意見があります。「今生きている人間から習うことは一つもない、死んだ人間からのみ習え」という意見です。人は死んでからようやく、歴史から忘れさられていい些細な存在か、それとも、忘れてはいけない伝えていくべき存在かの正当な判断が客観的に下されます。だから、今生きている多くの人間は正当に評価できない主観に捕らわれたノイズの多い実験データなのであり、そこから本物のみの抽出は難しい、宝くじのようなものだ。しかし、時間の風化に晒された歴史から学ぶことは、ノイズの少ない実験データであり、本質のみを享受しやすいというのである。多くの年老いた成功者は、自伝や自分の考えを述べて書籍にすれば売れる世の中のようだが、多くの場合、既に語り尽くされた金言が自分の人生にも当てはまり、良い一例となりましたよっという報告書である。今の成功者が「論語」から学んだというのなら、次の世代の人も「論語」から学べばよいのであるが、今の社会は「論語」よりも「今生きている成功者の論語の劣化版」が手に入りやすい環境である。本が売れないというだけで「真理もあるが、生きている故に嘘や虚栄も含むつまらない新書」に「正統的古典」が排斥される現状では、不幸な思考を持たざるを得ない人間の増加に少なからず寄与している。成功者が小我に捕らわれて闇雲に自分を神格化して振舞えば、まだ力を得ていない若い人間は力強く成長できなくなると思うのです。
 「悪貨は良貨を駆逐する」に習えば、「悪書は良書を駆逐する」と言える。なぜ、悪貨や悪書が蔓延するのだろう。自分に甘く、駄目な自分を満足させてくれるから・・・だろうか。危機感・使命感・目的意識・静かな怒りを息吹かずに生きている人間が多く、当事者意識が薄れているから・・・だろうか。既に今は優劣を正当に判断する能力を失いはじめている可能性もある。本来、悪書か良書かを判断する際にお金は関係ないのだが、そこにお金が勘定されている。売れる見込みがなければ作れないことと、人間は過去よりも今に興味がある(実際、普通の生活では過去は間接的にしか見えない)という事実は、「何が真に価値のあるものかを判断する指標」を人から奪うには十分な条件である。一方、科学は普遍性・検証が大事なので、過去も現在も未来も比較的関係ないと思われる。だから、今、何かしらかの教本や評論書が販売されても、科学的裏付け、歴史的考察まで言及していれば、それはいつの時代にも通用するので価値があると言えるのである。言い換えると、小我から離れた内容ほど優れており、通用する、目指すべき境地なのかもしれません。『人間の建設』では、「自我が強くなければ個性は出せない、個性の働きを持たなければ芸術品はつくれない、と考えて色々やっていることは、今、日本も世界もそうです。いい絵がだんだん描けなくなっている原因の一つと思います。」と書かれており、小我に捕らわれることを勧めてはいない。今まで、私は「自分を捨てろ」と言ってきたが、また一つ、その文献的論拠が得られたことは喜ばしい。この確信がとにかく欲しくて本を読む。

 僕は最近、「才能」という表現の代わりに、「飢え」という表現を是非使いたいと思うようになった。「飢え」という表現は、三島由紀夫や北野武が使っていたからだろうけど、「才能がない」のと「飢えがない」というのでは、後者の方が僕の言いたいことがより正しく反映されていると思ったのです。そもそも「才能」って何だよって思っていたし。
 「飢え」って言うと、生来的な要因以外に、自分では中々自由の効かない環境・境遇にも依存しており、時価的傾向を伴うことが良いのです。「飢え」は、満たされる場合もあれば、満たされない場合もあり、変化あるものだ。
 「才能」は、生まれた瞬間に価値が固定されている感じなので、これはやはり現実の様相とは異なる。環境的要素を重要視している自分としては「才能」より「飢え」の方が好感が持てるのです。
 
 「才能」という言葉は、おそらく、問題にしている分野で「才能がない人達」が意思疎通のために考え出したのではないかと思います(十分な論拠は全くございませんが・・・)。才能のある人は、才能という表現を使う前に、もっと親切に分かり易い表現を使い、伝えようと努力するし、できるのだと思うのです。しかし、実際、その分野の知見に乏しい人に十分に伝えることは難しいだろう。才能のある人の、可能な限り噛み砕いた親切な説明でも伝わらなかった人が、なんとかその偉業を第三者に説明しようとしたら、「才能」とかいった曖昧な表現が便利なのだと思います。
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・寝ること
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・真理編纂活動
⇒私の確信・直観の正当性を歴史の焔に焼べる。燃え残った"鉄塊"を我が真善美・規矩とする・・・そういった孤独な火遊びって意味。

確信・直観の裏付けのための書籍。即ち、焚き木。
■ 美の本体
(岸田劉生)
■ 自分の中に毒を持て
(岡本太郎)
■ 人間の建設
(小林秀雄、岡潔)
■ 人生の鍛錬 小林秀雄の言葉
(新潮社 編)
■ 現代語訳 学問のすすめ
(福澤諭吉、訳:斉藤孝)
■ 努力論
(斉藤兆史)
■ 努力論
(幸田露伴)
■ 機動戦士ガンダムthe ORIGIN
(安彦良和)
■ 創造への飛躍
(湯川秀樹)
■ 行動学入門
(三島由紀夫)
■ こころの処方箋
(河合隼雄)
■ ニーチェ入門
(竹田青嗣)
■ 大衆の反逆
(オルテガ)
■ ゲーテとの対話
(エッカーマン)
■ 人間とは何か
(M.トウェイン)
■ 思考の整理学
(外山滋比古)
■ 文芸批判論
(T.S.エリオット)
■ 歴史とは何か
(E.H.カー)
■ 幸福論
(V.ラッセル)
■ 共感する女脳、システム化する男脳
(サイモン・バロン=コーエン)
■ 人間性の心理学
(宮城音弥)
他、少々。

絵のための参考書
★ プロメテウス解剖学アトラス
(坂井建雄、松村譲兒)
★ やさしい美術解剖図
(J.シェパード)
★ やさしい人物画
(A・ルーミス)
★ 漫画の教科書シリーズNo.3リアルなキャラクターを描くためのデッサン講座
(西澤 晋)
★ The Art of Drawing
(Willy Pogany)
★ ANATOMY AND DRAWING
(Victor Perard)
★ デッサン学入門~創意の源泉を探る~
(南城 守)
他、少々。
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