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 "アイライン"(=水平線、地平線、カメラの高さ)と"奥行きの圧縮"(=重畳、重複)を最初に設定することで、初めて線を正しく引くことが出来る…もっと言えば、線を引く許可が下りる…そんな感じ。その二つを設定せずして筆を走らせることは本来はできない。ただ、普通は感性とか慣れとか、そういうものに頼り曖昧なままでもそれなりに見えるように描けるのだが…、機械じみた迷いのない精密高速描画は不可能だろう。"奥行きの圧縮"というのは、モノの重なりのことである。"大きさの圧縮"と"奥行きの圧縮"は反比例的関係になる。望遠レンズでは、奥行きの圧縮が強く、大きさの圧縮が弱い。広角レンズでは、奥行きの圧縮が弱く、大きさの圧縮が強い。奥行きの圧縮が弱いほど、対象の立体感を生じるような描き方ができないといけない…つまり、構造を知れということだ。構造を正しく知るには模写が道具として機能できると便利。
 アイラインが定まれば、ある消失点に収束する線束(つまり消失線)とアイラインとの角度も一定となる。広角レンズから望遠レンズに切り替えても、この消失線とアイラインのなす角度は一定であるはずであり、この角度が変化したら、アイライン(カメラ)の高さが変化したということだ。もちろん、視野角が通常の狭さ(0点透視図法や1点透視図法=弱望遠~望遠レンズでの見え方)においての話である。2点、3点透視図法以上に関してはこの限りではないが、そんな見え方を多用するのは常態ではない。
 0点透視図法といったが、これは画面から遥かにはみ出た所に、消失点がある場合を想定している。望遠レンズで見て、狭い領域を切り取った見え方なのですが、そういう見え方を採用することを"0点近似"と呼びたい。"0点近似"で描く場合、消失線から消失点の位置を推定しようにも平行すぎて不明瞭になりますが、逆に言えば、少々消失点の位置がずれようが無視できるということだ。だから開き直って消失点などは考えない。こういう見え方が、望遠レンズではよくあるし、利用する姿勢であるべきだ。

 黒澤 明の「赤ひげ」(1965年)では、望遠レンズからの撮影が多い。数十~数百メートル遠方から被写体を拡大して見た時、ある狭い領域を切り取った画面である。その画面内の被写体を含む"背景"は、非常に狭い領域だけが写ることになる。これにより、意図通りに"背景"より"被写体"に注目できるようになる。これは広角カメラ(接近して撮影した時の見え方)との顕著な違いの一つである。この望遠レンズ特有の絵は、意識的に見極めていかなければいけない。可能ならば、いわゆる"奥行きの圧縮"の程度から、カメラと被写体の距離を感覚的に割り出せればしめたものだ。
 アイラインは、カメラの高さ(z)だけを定義するので、残りのある平面内の座標(r,θ)はまだ自由である。この座標の内、片方のrが決まれば距離が定まり、この距離に対応した"奥行きの圧縮"となる。

参考文献
『マンガの教科書シリーズNo.3 リアルなキャラクターを描くためのデッサン講座』 (著者 西澤 晋,2009年)
⇒実際の見え方や絵作りに関する、パースとカメラの観点からの考察・知見が載っています。僕の知る限り、そういった絵作りに言及した本は他にないのではないかと思う。
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今年の抱負は何でしたかな。
来年の抱負は何にしよう。

追記:101231
 今思うことは、限られた情報しか持ち合わしていない私から導かれたのだから正しくはないだろう。しかし、それしか評価基準を持ち合わせてないし好きに意見を主張しようと思う。
 僕の体質なのだろうが、描いた結果にはあまり興味ない。描く工程の技術とその技術を作りえた思想と環境に興味がある。だから、今は、過去の人間の考えを学ぶことが先決だと思う。自分で勝手に必要だと思った概念があるとして、名前をつけるのはいいとは思うが、まず、同じような概念を過去の誰かが定義しているのならそれに従うべきだな。『デッサン学入門~創意の源泉を探る~ (南城 守)』を読むと、自分の意見が過去の誰に属したものかというのがわかる。僕と親和性が高い人物は、自然科学的思索、普遍性の追究を意識していた素描(デッサン、線描)を最高位の活動と位置づけた古代ギリシャ、ルネサンスの巨匠や新古典主義のダヴィット、プッサン、アングルなどでしょう。しかし、古典主義でないからといって素描を軽視している人は少ないようだ。多分、素描は当然重要で、マンネリ化した状況を打破するために新たな可能性を見ていたのかもしれない。決して、素描を否定することではないのである。

以下、まとめ。
『絵画における輪郭線は技術の終点である。人体の輪郭を一人前に描ければ、美術家として成功したことになる(by プリニウス)』
『まず、物を眺めよう(by アルベルティ)』
『素描こそ最高の学芸である(by レオナルド)』
『画家は自然を師としなければならない(by レオナルド)』
『画家は万能でなければ賞讃に値しない(by レオナルド)』
『絵画・彫刻・建築の創造の源泉はデッサンである(by ミケランジェロ)』
『目の中にコンパスを持つ(by ミケランジェロ)』
『(ヴェネツィア派の色彩絵画に対して)デッサンを知らない(修練しない)がための無理を、漠たる色彩によって隠さざるを得なかった(by ミケランジェロ)』
『絵は頭で描くことであって手で描くものではない(by ヴァザーリ)』
『自然はあらゆる芸術の母であり、素描はあらゆる芸術の父である(by ヴァザーリ)』
『ヨーロッパの芸術文化全体を集大成して自己のものにする(by ルーベンス)』
『個人を超えた普遍的表現を信じている(by ルーベンス)』
『偶然的なものの排除と確実なものの選択である(by ルーベンス)』
『筆触と呼ぶところのものは制作上の一つの濫用である。これは単に手腕を示すために、自然の模倣から遠ざかる誤った秀才と偽りの芸術に他ならない。筆触は、それがいかに巧みでも、目立つものであってはならない(by プッサン)』
『天使を描くためには、天使を見なければならない(by クールベ)』
『(印象主義理論に対して)自然によってプッサンをやり直す(by セザンヌ)』
『自然を球、円筒、円錐で扱う(by セザンヌ)』
『様々な場所、形象、家屋といったすべてを幾何学的な図式、つまり、立方体に還元する(by ブラック)』

 なぜ素描(デッサン)に“アカデミック=つまらない、月並みだ”という認識が染み付いたのか。素描を軽視する時代ならば、当然、素描の重要性を語り始める。素描の重要性が浸透した時代ならば、その反作用として、見たままにただ描く技術としてしかデッサンの意義をよく認識していない半可通によって批判が生じると思われる。
 作用が働けば、反作用は生じるわけであり、それは社会情勢、新技術(写真技術、彩色素材など)、ねたみ・自己是認に起因する真理の曲解、いずれも要因と成りうる。私の今の感情・立場に反作用的性格がないかと問われると、完全に否定は出来ない。

 今の私がどこに所属する人間なのかはある程度知れたが、モーツァルトの創作姿勢・修行を知ると、なんとか派だとか、どこどこに属するとかいう次元ではないことがわかる。望まれる精神は存在するあらゆる系統を全て吸収し、平等に扱い、自在に引き出し統御するだけの器量だと教えてくれる。
 今の私が、特に知りもせず感情的に悪い・嫌いと評価しているのは凡そ勘違いだ考えてよいだろう。馴染みのないものは大抵気分を害するものだ。初見にも関わらず素晴らしいと思えたものは、君がこれまでに漠然とそれを欲していたからだ。欲さないものを不快に感じるが、欲さないものが劣っているなんて評価を下せる権威など自分にないことは周知の通りである。自分が常に正しい評価を下せるモノサシを、現在までに培っているなんてことは決してない。にも関わらず、私は理性だけに頼らず、感情を多分に働かせて物事を判断し、結果として視野を狭めていくとは何事か!!…と思うのである。私が正当な評価を十分信頼できるレベルで行なえる権威があると思い違いをしていることに気がつかないのもまた、視野の狭さが助長させている。物事を誰よりも正当に判断できる基準を手に入れたいね。

 上記の今伝えられている過去の巨匠達は、僕らが思っているより、はるかに『自然』と『過去の巨匠』を研究している。また、明確で、親密な師弟関係が存在したことも現代の傾向とはまるで違うようだ。現代でも伝統工芸や大工などでは、依然としてそのような師弟関係が明確にあるのだろうが…。人によっては有名な絵師に憧れて、一方的にあたかも師匠のように設定し、技を盗もうと励んでいる場合もあろうが、師匠を明確に想定していない人も多かろう。成長スピードと視野を広くする契機の多寡の観点から言えば、師匠がいる方が確実に優るだろう。昔は、その道を志したら弟子として、どこか有名な職人のいる工房に住み込みで習ったようだ。そこまでしないにしても、そのような姿勢、つまり、自分の内側ではなく自分の外側に何かを求める姿勢、が重要だと現代においては強調するべきことだろう。

 あと、色彩に関しては、そもそも今みたいに欲しい色が即座に選択できる状態でないのが常識。300年前、今のように求める絵の具が簡単に用意できないので、レンブラントが開発されたばかりの油絵の具を使って『夜警』を描いたのが今までにない斬新な発色を表現できたようだ。技術開発も考慮したうえでの評価なのだろう。あの時期にあのレベルの絵を描けたことが重要なのでしょう。近代になって色彩が注目されたのは、チューブ絵の具が容易に使用できる環境が整備されたからだ。それ以前の、鉱物を調達して、溶剤に混ぜで納得する色彩を微妙な配合で生み出すような時代には、まず問題提起が難しいね。素描か色彩かはいずれが重要かという議論は、どっちも大事だろが答えでしょう。

追記110106
チェンニーニ(1360年頃-1440年)の素描の修行年数の叙述を以下抄録(『芸術の書』より)
「技法を修得するのに必要な年数を、まず知っておかねばならない。最初にパネルを使ってデッサンの初歩を学ぶのに一年を要する。師の工房に寝起きして、顔料を砕くことから始めて、膠(にかわ)を煮ること、石膏を捏ねること、パネルの地塗り、肉付け、盛り上げ、磨くこと、金箔を置くこと、金地に粒点を施すことまで、絵画に関するあらゆる製法、技法に精通するには6年を要する。ついて、顔料を研究し、媒剤を使って彩色し、装飾すること、豊かに波打つドラペリー(衣裳の襞)を金で表すこと、壁画に習熟すること、さらに6年を要する。その間、デッサンを常に心掛け、祭日平日の別なく、毎日毎日、デッサンを怠ってはならない。こうして、多大な習練を積むことによってこそ天性も立派に結実するのである。これ以外には、いかなる道を君が選ぼうと完成は望めまい。」

色々、模写した。

 以前言っていたマーク・トウェインの『人間とは何か』を紹介しよ。読む度に、人間を妙に過大評価する宗教的世界観をぶち壊す、一昔前なら焚殺ものの出版物だと感じる。私はこういう内容大好きですが。
 この本は、『老人』と『青年』の対話形式です。著者の死後、出版されたものです。なんというか、著者は老人となって言いたいこと言ったようですね。熱力学(第二種永久機関の研究→エントロピー増大、統計学→神の不在証明)の発展した時代との兼ね合いでしょうが、こういう考え方になってしまうのか。個人的には結構好きなんですよ。一見、著者は大胆な書き物をしたようだが、内容自体は先人から学んだ内容だと確信して言える。彼は自分の人生経験を通じて、先人の箴言と対照を行い、然りと納得して書き上げたものと感じる。彼のこの思想は、必然的に先人の思想を彼に網羅・系譜させる状態に至らせる。ただ、ここまでこの思想に焦点を絞った本というのは珍しいのかね。

 青年が自信を持って披露する毒された常識に対して、ひたすら反駁していく老人の構図が終始続く。登場する青年はよく切れずに老人の話を最後まで聞くもんだと感心する。こういう若者は珍しいし、賢明だ。俺なら切れるんじゃないかと思う。

 言いたいことは、次回。

追記:101201
絵の人物の紹介・解説と色々学んだ世界観。冗談半分で捉えて下さい。

 カール・アンダーソン:ディラックの反物質の存在予測をミリカンと実験的に証明。宇宙線による電子対創生の際の陽電子を観測(1932年)。仏教用語では『空即是色』と表現される。純粋なるE(1022keV)→2mc^2。
 ウォルトン:加速器の原形となる装置[当時の新聞では原子核破壊装置と表現]をコッククロフトと製作。おめでとう。古代の錬金術師が待ち望んだ、人工的な元素変換の実現。この装置(加速器)が『賢者の石』に当たるわけだ。この時は、陽子を加速しているので、原子核への接近は難しく人工放射化はまだ容易ではない。中性子線を利用したフェルミまで待つことになる。そんで、原子爆弾製造へ。つまり、賢者の石は、『強い力』を解放する原爆(の素材)を生み出した(効率的に起爆させる技術はまた別物)。賢者の石の本質は電場・磁場による加速・質量分離だ。原爆にしても、中性子放出の連鎖反応という自然の神秘的な原理を空想し、素材(ピッチブレンド)を見つけたことが全てだ。賢者の石により、天然に1%程度しかないウラン235を99%まで濃縮する[濃縮ウラン]。もし、ウラン235がなかったら、原理的には空想できても、実現できる素材がなければ人間にはできはしない。感覚的には人間の力と認識するのは間違いだ。到底、人間にできる芸当ではない。
 5万年前の原始人が、マンモスを高い崖に追い込み、地面に叩き落すために誘導する構図と同じ。何もこんな暴力的な場合だけではない。芸術活動で素晴らしい成果を挙げるだけの力の起源も同様の構図である。
 芸術家は絶大なる自然の神秘の代弁者[ブラウン管]にすぎず、芸術家自体が個として持つ神秘性に感動[感応]しているわけではない。芸術家を透過して、映し出される自然の美しさに感動しているのである。こうした感動を引き起こす力を持つ芸術家はもちろん賞讃に値されるものである。ただ、多くの芸術家は起源を忘れているのではないか。自分が賞讃される力の起源を。どういうわけが自分の力だと錯覚している。力の起源を自分自身だと錯覚して、自然を見なくなった瞬間に、彼らに与えられていた無窮の大地の恩恵は途絶え、彼らは見る見る萎れていく。彼らは、なぜ力が増幅しなくなったのか不可思議に思う。樹木を根っこから引き抜く行為と同等であるにもかかわらずだ。瑞々しく熟した果実は、一体誰のおかげで結実したのか知れ。起源を気に掛けることは身のほどを知る為に重要だ。
 この着想は、ゲーテ[詩人]、ラッセル[数学者]、マーク・トウェイン[文学者]、ヴァザーリ[建築家]に関しては同様の思念を持っている、系譜されていると解釈している。僕は彼らの着想を自分の経験と対照して、『然り』と共感し、現在採用してる。だから、あえて極論となりますが『個性など捨てろ』、『無個性を求めろ』と主唱している(立場により、この主張は正しくないかもしれないけれど)。結局、どんなに無個性を極めて、自然を完璧に再現しようとも、自然の代替物にはなれはしない。究極美を有する自然を目指した結果、どうしても接近できない残差こそ、評価に値する個性として発露する。だから、僕らは意図的に個性を求めずとも、個性から逃れられないのだ。安心して、無個性を極めるといいと思っている。
 雪の結晶で同じものはこの世に二つとないとされる。両手いっぱいに盛った雪に含まれる無数の結晶は全て個性的だ。しかし、その背後に潜む、この世を循環させている法則は普遍だろう。どの雪の結晶にも、同じ法則が適用されているにも関わらず、その様相は千差万別である。人間にも同様の理屈を押し広げたいと僕は思う。法則を知るには、表面上の個性に捕らわれているわけにはいかない。根底の法則を見極め、その気になれば、自分の結晶の形態をも自在に変更できる掌握者とならなくては。となると、もはや個性などどうでもいい。君のようになるには、どのような条件・引数を我が身に委ねればいいか知れるからだ。無個性・普遍的な原則から、個性が顕現するシステムはこのようなものだろう。自分だけが持てる定まった個性などありはしない。個性は選択し、捨て、操るものだ。CD-RとCD-RWのいずれで個性を捉えるかということ。後者ならば、シャアの発言が理解できる。良し悪しは無視して特筆すべき個性を持つには、大衆と同じ有り触れた経験・環境・境遇からいかに遠ざかるかが重要である。現実的には、人間には運命を精密に操る力はないので求める条件など作り出せない。ある思想を自分に育む必然性を生む環境が戦時中だとしても、それを自分が全く関わらず自由に作り出すことはできない。ただ、自分が関わり、自然の力を知恵で誘導すれば、大雑把には人間の身でありながら条件を現実化できる。戦争の話を聴いたり、読んだりしても、劣化してはいるが似た条件を作り出せよう。

 自然の力を引き出す誘導こそ人間には知恵により可能であるが、こうした自然の力は誰にでも平等に世界の至る所に連綿と流れているもの。力の根源自体に人間としての個は関係ないのだから、『能力の有無』といった問題は先天的にはないはずであり、そういったものは経験・知識など後天的に補うことで如何様にもなる問題である(この意見の論証は難しいが、自信に満ち、力強く、妬まず生きるためにはこの姿勢は必要ではないのか)。いかに力を誘導する方法を知っているか、そういったものを無意識に学んでいる環境・境遇が全てである。
 漫画とかで人間に強力な能力を持たせるにしても、こうした構図の方が現実の人間の様相に即した表現となる必然性を生む。人間の扱える矮小な力で自然の大きな力を制御できる機構を考える。機械仕掛けの世界[半永久機関]を規定する公理[ルール]を明示する。そうした無差別に適応される世界の条件を洗練された形で決めることが重要だと思う。真理に即すことが全てではないとも思うが、今いる世界の真理と呼ばれるものは最低限学ばなくてはならない。そうしたことを学んだ上で、あえて特別な人間(事実上、人間ではない)を創ると面白い操作が可能になるでしょう。運命を制御できる存在との遭遇の話は、既に使い古されているが、個人的に感興の尽きないテーマである。
 運命を制御できる存在は、僕らの次元で言うところの『人生を考える』『人としての幸福な生き方』『哲学』などはまるで関心なんてないだろうな。彼らは言うだろう、そんなものはお前が考える所ではないと・・・ただただ翻弄され、心が楽になるようにお好きなように解釈・納得なさいと。いや、多分、こうした意思疎通すら成立しない。彼らは僕らに『言う』という行動を誘発するほど関心がない。それも全く悪意のない無視である。彼らは、僕らの人間関係や生きる環境など容易に変更できる。条件変更された結果、僕らの価値観・人格はそうした変化に大きく揺さぶられ、求められた在るべき形にまで予定通り順応するに至る。つまり、僕らが尊重する人格なんて彼らの操作次第であり、彼らは自在に私たちを制御できる。まるで僕らに自由意志なんて感じない。コミュニケーションが成立し、互いに尊重し合える存在と成りうるなんて微塵も思わないでしょう。僕らを殺しても、罪なんて意識全然ない。僕らが河原の小石を蹴って、『ごめんなさい』と言う意味がわからないようなものだ。彼らの持つ姿勢・意欲としては、上司[神様]が仕事だからやれって言うからやる事務処理程度としか思っていないだろうな。彼らは、僕の人生を事務処理のように心無く機械的に扱う・・・まるで関心がないのだから。僕らにとって、手足も意思もないどこにでもある『石ころ』を気にとめるか否かと同程度の関心事でしょう。それでも、気になってしまう憐れな宝石は確かにあるのかもしれない。メフィストにとってファウストはそういう存在だったのだろう。話を戻そう。

ボールペンで描いたものです。ひたすら描いてみる実験。
後頭部-首-肩のあたりの立体感とかよく見とこうと思った。

ワンピのOP13カッコイイね。胸熱だわ!

今日もアニメが見れることが幸せだ。

 話は全然替わるが、今、ルネサンス期から科学革命までの一連の歴史について興味がある。ルネサンスに天才が偶然、沢山生まれたのではなくて、そういった天才になりえる人間はいつの時代にも一定量存在すると考えるのは許されるだろう(私は人間なんて素粒子と同様、個性など皆無という仮説を物を考える時には採用しているので。個性的だと感じるのは忘却作用によるものだ。)。興味深い点は、どのようにしてルネサンス期に、天才が開花する状況を作ることができたかである。まず、神の不在を証明するような科学的思考(悪魔的思考)を広めたりすることが許されない世界であり、異端として認識されれば最悪、焚殺される。そういった圧力があったことも事実だが、直接的な原因は、10世紀頃に、古代エジプトやアラビア圏で紀元前~10世紀までに発展していた錬金術と永久機関の研究内容の書籍がギリシア語からラテン語翻訳されてヨーロッパ中に広まったことでしょう(12世紀ルネサンス)。内容を知ると、どうやら当時の宗教・哲学が教えるような世界ではないと気づき始める。神さまを理由にするまでもなく、物事が説明できてしまったんだな。神の名を借りて私欲を満たす聖職者がいれば、その論拠となる神を殺しにかかる人もいるだろう。

 錬金術から化学になったのは、元素リンの単体抽出からだといわれる。面白い点は、当時の錬金術などの科学的実験をしている人は、魔術師と呼ばれている点だ。魔術師自身も錬金術で使用する技術:酸化、蒸留、析出などの化学的処理を魔術と呼ぶのですから。現代的には、科学と魔術は対立するような概念だ。しかし、宗教的世界観が常識の当時としては、現代の科学の立ち位置に宗教の教えがあり、それ以外の神の権威を脅かす異端思想は魔術的だと表現した。実際、ローマ教会は翻訳によって広まった錬金術を魔術的だとして禁止した。今の感覚からすれば、宗教の方が魔術的でしょうよ。

 魔法を既存の科学よりも高度な科学と認識するなら、まさに歴史的に証明されているね。

 当時の魔術・異端の思潮を受け継いだのが現代の科学。つまり、今の科学者は当時の言葉としては魔術師に該当する人々なのです。多分、僕は『光の魔術師』に該当するんだろうが、もっと広く『量子の魔術師』とかいうと新鮮だな。
科学革命前夜の研究などは、力学・光学は今でも遜色のない内容なのに、同列の学問である錬金術では魔術って言葉が使われているという状況だったのは夢があるな。科学者(魔術師)が元々とんでもない夢追い人っていうのがわかる。科学と魔術が錯綜した時代は確かにあった。

 アラビア語の定冠詞(al-)を発見すると中世はまさにイスラーム時代だったんだと気づかされる。錬金術(アルケミー)、アルコール、アレキサンドリアなど。化学はアルケミーから定冠詞をとったもの。アルコール⇔アル・コホル。コホルとは化粧瓶のこと。アル・イスカンダリィーア(the 地中海)。アルマゲスト(天動説、al-magest=最も偉大なもの)。アルゴリズム(the フワリズム出身の人、中世アラビアの数学者)。

 アッバース朝などのイスラーム文化の国の大躍進により、キリスト圏の国の勢力が縮退したことも科学的思考(決定論[運命論]的思考、悪魔的思考)に対して圧力が減少した原因の一つかもしれない。ラスター彩陶器(今で言うセラミックス素材)などの工芸品など見ていると、イスラームは一応、偶像崇拝禁止だけど人間や動物の絵などの陶器が多く出土していることがわかる。キリスト圏よりは、錬金術などの魔術が発展できる柔軟な風土だったのかもしれない。

追記110106
 イスラーム(神への『恭順』を表す)の人々は、神のもとでの平等を原理として掲げ、奴隷の存在を原則として認めず、理論科学による実践の補助を鼓舞した。バグダードのバイト=ル=ヒクマ(知恵の館)。

参照
1) ルネサンスの思想家たち(1963年、野田又夫)
2) 神と物理学(2002年、池内 了)
3) 科学史年表(2003年、小山慶太)
4) 科学論入門(1996円、佐々木力)

周辺の消した跡なんですけど、別に何かあったわけではありません。
ちょっと気取っただけです。あと淋しかったからか。

骨盤の傾きはもっと大きいな。尻のあたりの整合性が崩れてる。骨盤の
後方は5センチ上に来るように傾ける必要があった。ちくしょう!
適当に描くからこうなるんだよ。私・・・猛省せよ。

来月は真面目にやるよw

剃刀であご切ったぜ!血がが止まらないぜ!タオルについた血ってどんどん黒くなるよね!ッと思ったらカビだこれ!

転載。手の箱というのもが出来ていないのもあるが、おそらく手を描くには、手自体も重要だが、腕との連係をよくする必要があるんだな。

俺相当ルイズ好きって勘違いされそうだな。


服を初めて資料を見てきちんと描いた。
目的
①服のしわの構造の把握
②服の分類化
③その他(靴下着、靴、帽子、アクセサリー)の把握

自分が比較的服に疎いことが最近わかった。

そろそろ人間から服へ手を伸ばしても許せると感じ始めたので開始。

描いてみてわかったことはやはり、しわの発生点と収束点が重要。
これは筋肉と骨の関係にも言えたこと。
服(しわ)⇒体(筋肉)⇒体(骨) 骨が最も根幹で重要

終始点(完結していること)の把握は法則性として重要  

本気で描いた服から何を学ぶか。何か重要でしょうか。
何も見ずに、もっと線を減らし、はやく描いた時、なおかつこの質を彷彿とさせるには何をポイントとして知っておけばいいか。


あとシートンさんの動物解剖図でも買ってみた。
骨格さえ動物ごとにそのシルエットを把握すれば、筋肉は人間の構成に十分似ているので始点終点を知っている自分としては易いと感じた。重要なのは骨格だと感じた。骨格も人間のものを変化させれば対応するので基本として覚えていれば応用も利く。


最近読んだ本で写実主義の思想が自分と同じで自分の求める方向性が適合していることを確認した。

久しぶりにクロロ描いた。富樫先生は最高です。
 俺も念が使いたいです。これは持論なのですが、暗がりとかで幽霊とか出て来いと思うわけですよ。出てきた瞬間、自分にもそういった力が生まれるという裏づけのようなものになるんですきっと。
 でもなかなか出てきません念で成仏させようと思うんですか、というか幽霊がなぜ生き物より優位と思うんですかね。生き物は肉体と幽体の両方もっているんですよ。肉体が死んでもまだ幽霊さんと対等ですよ!逆に呪い殺してやりましょうよ皆さん!ふぅ!ちょっと熱くなりました。それはさておき、
鉢巻は結構いいポイントだと思う。ガンダムで言えばヘルメット(帽子)のツバみたいなもので、角度の違いで目の形が変化する。尋常ではありえない目の輪郭を形成可能!

本屋で本を注文しました。
今までは『やさしい美術解剖図』をしていましたが、これはもう完璧なので[微妙w]。絵描きとして人体の筋肉や骨格を把握しているのは当然でしょw。というかこの本は設計図のようなもので各部位の正確な位置関係を把握するのには長けていますが、ダイナミックなポーズの筋肉の位置・形を覚えるのはやや難しい。でも初心者の自分にはいい入門書でしたw。

そこで今度はダイナミックシリーズを購入しようかと思ったのですよぅ。
おそらく逐一筋肉の名称とかは描いていない気がしますが、これは今までの知識で逆算することによって把握できると思う。この逆算という過程はいい修行になると踏んだわけだ。あと筋肉とは別に人体の光による陰影を意識した絵をあまり描いていないのでやっとこう。

そろそろ洋服のバライアリティーも欲しいと思ってるわけですよぅ。絵チャとかで自分に洋服の引き出しが無いのに絶望!。シワの理想はアニメのような独特のモコモコしててシワっぽく見えるやつね。
あとアニメーター・サバイバルキッドとかいうやつも注文したw。

リンク追加したわけですが、みんな本当に美味いな!憧れますよ。描いてる量も違うんでしょうけど。そういった人たちもやはり悩んだり試行錯誤の結果なのだということが分かりました。

特に自分より年下なのにこれかよ!っていうのはいい焦燥感を生みますよ。人のいいとこはどんどんパクッて行きたいです。

ガイキング見ました。格好酔いです。

傘の半径は結構長くしました。広げれば全身が隠れます。
巫女服(袴)のスカートがどうシワを入れればいいかわかんね。実際、構造理解してなくて書いてるからわかんなくて当然なのですが。

服の線画数を増やすべく、いろいろ描かないといけません。あと暇があれば足首以下の練習。あと骨盤の立体構造を正確に把握しないといろいろ不都合だと思った。

を再び読み始めようかと考えはじめた。友人に41巻に感動した。っといっているオタッキーがいるので。自分は空島あたりでやめたのですが再び。

ひと段落しました。明日製本。がんばるべ。

女性はいつもより足を細くしてすっきりさせた。プニっとしたのもいいがいつもそういうわけにはいかんってな理由で。

「るーこ」描いたがこんなキャラじゃないな。と書いた後思ったがまぁいいか。TH2やってないし。前髪が違うなぁ。コンテもゼロだなぁ。

足を曲げたときどうも尻へのラインに違和感があったので足は尻の上部まで意識したほうが無難と思いました。別に尻と足を分けて考えても慣れれば描けるのでしょうが。

アウトライン(シルエット)と断面の二通りから立体を捕らえました。
やはり断面がしっかり意識されないと奥行きはうまく表現できません。あとパースとかも。
首から胸そして腰の辺りの正確な断面を把握中。
顔を描くときだるまに目を書くように目を書いていくのでなかなかそのポイントが把握しづらい。髪のヴォリュームでかなりずれを生じさせてしまうときがある。何かいい方法を考えねば。

水の表現。といっておく。


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ごんきゅう(権窮・GONQ)
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男性
自己紹介:
連絡:gokujoh-anmitsu★mail.goo.ne.jp
★⇒@

趣味
・寝ること
・デッサン会
・異分野の本物の人間に会いたい
・真理編纂活動
⇒私の確信・直観の正当性を歴史の焔に焼べる。燃え残った"鉄塊"を我が真善美・規矩とする・・・そういった孤独な火遊びって意味。

確信・直観の裏付けのための書籍。即ち、焚き木。
■ 美の本体
(岸田劉生)
■ 自分の中に毒を持て
(岡本太郎)
■ 人間の建設
(小林秀雄、岡潔)
■ 人生の鍛錬 小林秀雄の言葉
(新潮社 編)
■ 現代語訳 学問のすすめ
(福澤諭吉、訳:斉藤孝)
■ 努力論
(斉藤兆史)
■ 努力論
(幸田露伴)
■ 機動戦士ガンダムthe ORIGIN
(安彦良和)
■ 創造への飛躍
(湯川秀樹)
■ 行動学入門
(三島由紀夫)
■ こころの処方箋
(河合隼雄)
■ ニーチェ入門
(竹田青嗣)
■ 大衆の反逆
(オルテガ)
■ ゲーテとの対話
(エッカーマン)
■ 人間とは何か
(M.トウェイン)
■ 思考の整理学
(外山滋比古)
■ 文芸批判論
(T.S.エリオット)
■ 歴史とは何か
(E.H.カー)
■ 幸福論
(V.ラッセル)
■ 共感する女脳、システム化する男脳
(サイモン・バロン=コーエン)
■ 人間性の心理学
(宮城音弥)
他、少々。

絵のための参考書
★ プロメテウス解剖学アトラス
(坂井建雄、松村譲兒)
★ やさしい美術解剖図
(J.シェパード)
★ やさしい人物画
(A・ルーミス)
★ 漫画の教科書シリーズNo.3リアルなキャラクターを描くためのデッサン講座
(西澤 晋)
★ The Art of Drawing
(Willy Pogany)
★ ANATOMY AND DRAWING
(Victor Perard)
★ デッサン学入門~創意の源泉を探る~
(南城 守)
他、少々。
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