↓ここは、以後洗練させていきます(工事中の日記)。
「歴史とは何か」(E.H.カー 著、清水幾太郎 訳)より抄録
19世紀は大変な事実尊重の時代でありました。『辛い世の中(ディケンズの作品)』の主人公グラドグラインド氏は次のように申しました。「私が欲しいのは事実です。・・・・・・人生で必要なのは事実だけです。」19世紀の歴史家たちは概して彼と同じ意見だったのです。
サー・ジョージ・クラークですら、歴史における「事実という堅い芯」と「それを包む疑わしい解釈という果肉」とを自分で対照させているのですが、きっと、果物は果肉の部分の方が堅い芯よりも有難いものだということを忘れているのでしょう。先ず、汝の事実を確実に手に入れよ、次に、無二無三、解釈という流れ動く砂漠に突進せよ―これが歴史における経験的な常識的な学派の最後の言葉であります。
→歴史における事実と解釈を、果物における芯(種)と果肉にアナラジーしているのは、上手な解釈だと感じた。事実のみでは皆を喜ばせるには弱いが、事実をどう解釈するかで皆は食いつくかどうか決まる。しかし、解釈を生み出す起源は堅固な事実なのであって、解釈から解釈を生み出すことは、いずれかの段階で腐り始め、誰も見向きもしなくなる。
良い解釈を生むためには、面白い解釈ばかりに気をとられることはできない。無味乾燥かもしれない事実を集め、自分の庭に蒔くことに時間をかける必要があると思われる。歴史と果物のこのアナラジーは、これまで見てきた中でかなり上手い部類に当たる気がする。
「正確は義務であって、美徳ではない」というハウスマン(1859-1935、英、古典学者)の言葉を思い出します。正確であるといって歴史家を賞讃するのは、よく乾燥した木材を工事に用いたとか、うまく交ぜたコンクリートを用いたとかいって建築家を賞讃するようなものであります。
トルストイは『戦争と平和』の中でアダム・スミスに倣って次のように書きました。「人間は意識的には自分のために生きながら、人類の歴史的な普遍的な目的を達成するための無意識の道具になっている。」
バターフィールド教授によれば、「歴史的事件というものには、誰一人欲していなかった方向へ歴史のコースを捻じ曲げるような性質がある。」
ロッジは次のように書いた。「彼は参戦するつもりはない。しかし、事件に押し流されてしまうと思う。」「人間の意図による説明」や行為者自らが語る動機の説明を基礎にして、つまり、行為者がなぜ「彼ら自身の気持ちからして、このような行為をしたのか」を基礎にして歴史を書くことが出来ると考えるのは、一切の事実を無視することです。
→以下、「歴史は「べき乗則」で動く」(マーク・ブキャナン著、水谷 淳 訳)も踏まえる。
歴史はどうやら、決定論的思考により説明することはできないらしい(つまり、経験知によって未来を予測する式が得られない)。個人個人の思惑の単なる積み重ね以上の何か不思議な力が働いているというのが皆が思っているところである。統計論的思考であるならば、歴史(革命、戦争、暴落、地震、山火事、巨大隕石衝突、種の絶滅など)の予測不能な出来事は数学的なべき乗則によって表現はできる。ある種の絶滅を保護することは大切であるが、その一方で、これまで歴史では、生命の99.99%は絶滅しているのだ。それも、巨大隕石衝突によって絶滅したのは全体のほんの一部であって、ほとんどの種がそれほど驚くべきことでない原因によって絶滅する可能性を秘めた不安定(臨界状態)な存在なのだ。隕石という仰々しい理由がなければ絶滅は起こらないと思うのはどうやら間違いらしい。
べき乗則は、個人の詳細な情報を設定することを必要としない。どんなに個人個人がそれなりの意思で行動したとしても、この法則は堅く守られるようだ。正しいかどうかわからないが、一つ例を挙げる。100人のうち、20人が優秀ならば残りの80人は怠けるようになる。優秀な20人を集めると、その中から怠け者がまたある一定の割合で生じるらしい。この比率を知るためには、個人個人の情報はそれほど厳密に知る必要はない。
ガウス分布が、なぜあのような関数として表現され、ピークを上手くフィットできるかを説明できる人はいるだろうか。私も十分できるわけではないが、ガウス分布、べき乗則、フラクタルなどは関連していると感じる。
天変地異的な大規模な現象を引き起こせる状態を臨界状態と呼び、森を全て焼き尽くた山火事に対して、森林はそのような大火災を引き起こせる臨界状態であり、原子爆弾の原料となるウラン235が炸裂するための最低質量も臨界状態である。そこは、つまり、有機的なネットワーク・連関が緻密に育った状態である。臨界状態では、ある十分に長い時間で考えれば大地震というものは必然的に、誰も気にしない小さな地震と同じ原因でもって起こりうる。
歴史家は第一次世界大戦の原因を、テロリストによるどこぞの皇子の暗殺だとした。しかし、大戦の規模に関しては、なぜその程度になったのかを説明できていない。場合によっては、もっと小さな規模(ヨーロッパだけとか)で済んでよいはずであるし、歴史家ならば大戦への発展を未然に防ぐ知恵を提案して欲しいものである。べき乗則によれば、世界情勢が大規模な戦争が起き得る臨界状態であったからだと説明される。情報化社会、グローバル化に比例して臨界状態はより敏感となったといえる。互いに相互作用しあうネットワークという構造そのものが、臨界状態を作りうるなら、脳内のニューロンネットワークは、アイディアを生み出す臨界状態に常にあると考えられる。アイディアは苦労して生み出すというよりは、必要十分なネットワークが組まれさえすれば自然にふと湧き出るものだ。苦労したと思っている人も、最後のパーツを偶然手に入れるまで「待つ」ことが苦労したのであって、アイディア・発想そのものは、まるで突然降ってくるようなものだ。これは大地震や株価の大暴落と同じようなシステムであり、小さな出来事が起きるシステムと全く違う特別な原理により引き起こされたものではないと説明される。
統計論でいうとことの臨界状態の極限を考えると、決定論はその領域では成立する。爆弾に火をつければ爆発するという決定論的工程を実現しうる爆弾は、極限臨界状態まで組織化されていたといえる。
統計論の臨界状態とは、確率的に大規模な変化を引き起こす可能性がある状態をいう。
大地震など僕達の次元(スケール)で注目に値する特異的な変化の原因と、僕達が注目に値しない無数に発生している小さな地震の原因は、同じとされる。大地震に特別な原因は必要ではない。
問題は、そのような取るに足らない原因を出発点として、どの規模まで発展するのかが確率的にしかわからないということ。同じ原因でありながら、地震の規模が決定できないため、日本は過去100年地震の研究をしても未だに決定論的に扱えない(予知できない)。
臨界状態のさらに上を、超臨界状態といい、べき乗則には従っていると思われ、臨界が進むほど僕達の次元でいうところの大規模な変化の起きる確率は増えている。極限的な臨界状態となると、確率が100%に近くなり、原因→確率→結果という3工程のうち、確率が抜け落ち、原因と結果が1対1対応する。
起きてしまうと、たいてい臨界状態を生み出していた組織(ネットワーク)そのものが壊れてしまうため(例えば核爆弾の連鎖反応)、不可逆的な挙動を示すようになる。